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12/30 建設現場の若い女性職人と1年の締めくくり餅つきイベント

一年の終り、仕事納め翌日の年中行事、餅つきに行ってきました。
毎年12月の暮、仕事納めの翌日は、昔の仕事仲間友人の会社の駐車場で沢山の建設・設備職人たちが集まって 「大餅つき大会イベント」が行われ、退職後から参加するようになりました。
今年は、この友人社長が趣味の磯釣りと養蜂と野菜作りの為に、購入した伊豆稲取の古民家で行われました。

築25年本格木造日本家屋
古民家と云っても築25年の本格和風建築で、敷地は300坪、ミカンの木や、竹林までついて、780万円。
駅から車で10分、所謂別荘地でもない農家です。
この地域に古くから住む同じ苗字の一族のご本家でした。
本家の当主のおじいちゃんが、競輪で大きな借金を造り、この自宅が競売にかけられたのを、趣味が多彩な 友人が、仲間たちの拠点として物色していた時に落札したのです。

趣味と実益を兼ねての養蜂
小さな建築設備会社を営んでいますが、東京オリンピック景気が、人件費が高騰しており5人の社員で年間 一億程度の売り上げがあり、絶好調のようで、この築25年の古民家も、日曜日の度に、社員や釣り仲間と一緒に リフォームしたようです。
冗談半分に、 「リフォームにかかった資材は、全部現場の材料として落としてんでしょ。」
「手伝ってくれた社員や、職人さんへのお礼も、給与で処理してんでしょ。」
友人は「そんな日産の会長のようなことは、わが社はしませんよ。」と笑っていました。
やはり、小さいとは云え、一国一城の主は、一部上場有名企業勤めのサラリーマンとは違うのです。

20代前半の若い女性社員
社員の一人に20代前半の若い、可愛い女性がいます。
短大時代に、養蜂に興味をいだき、度々横浜の会社に遊びにきていているうちに、この会社に居ついてしまった と云う変わり者の女の子です。
友人社長もこの女の子の入社を二度断りました。
とても、稼げない若い女性を雇う余裕がなかったです。
しかし、短大の卒業も近づいてきて、一般企業に就職する気もなく、日々が過ぎていくと、友人も心配しだして、 ご両親が承諾すれば、OKと折れて、入社することになりました。
最初の仕事は、私と一緒に会社のホームページ作りでした。が、ご本人は現場に出たいと云うのです。
中小の現場は、女性社員・職人の入場を嫌がります。
理由は、現場の環境づくりです。
女性専用のトイレ、更衣室を造らねばなりませんし、若い、綺麗な女性が 入ることによる、風紀上の心配までしていたのですが、全く問題はありませんでした。
却って、若い女性が入ることにより、現場は明るく、綺麗になっていったそうです。

朝9時からもち米50Kの餅つき開始
この日、朝9時から50kのもち米をつきました。
数年前、鎌倉のイベントで餅つきをした時は、カマドでしたが、さすが建築設備の会社ですから、ガスと電気です。
今年から一度蒸しあがったもち米を最初、電気もち製造機にある程度の形に仕上げてから、人の手でつきあげ、 スピード化を果たしました。
午後2時過ぎには、50kの餅をつきあげました。
数年前まで鎌倉のシニアの家庭の庭での餅つきの応援に行っていた時、60代は若手扱いされて、杵を担ぎましたが、 この、友人の会社の餅つきでは、社長の古い友人のオジサン(お爺さん?)扱いです。
40代の建設職人さんが沢山いますので、蒸し器が追い付かないほどのスピードあっという間におわりました。

餅よりも海鮮バーベキュー


今年の餅つきイベントは、友人の釣り仲間が多く参加しましたので、メインの餅よりも、魚介類のBBQが 多く、あわび・伊勢海老・サザエ、おまけに誰かの差し入れの子持ち鮎、今朝早朝吊り上げた「すずき」や 「カワハギ」のお刺身、そしてご近所さんからはイノシシのお肉まで登場し、お腹いっぱいになりました。
帰る時には、この日つきあげた「のし餅」・趣味と商売半々はでやっている「ハチミツ製品」、これから本格的に やりたいと云っている趣味の「ブルベリージャム」、庭でとれた「デコポン」と、車で来ている来客は 段ボールいっぱいに家庭菜園の野菜を持ち帰る義務が課せられました。
3時過ぎ、かばんいっぱいのお土産を背負って、伊豆稲取から再び2時間半の道のりを帰っていきました。
楽しい、1日でした。
伊豆稲取の二駅先は、河津です。
来年はここに泊まって河津桜を身に来ようかな。


12/24 喪中はがきと終活年賀状

年齢を重ねていくと毎年12月に入ると、喪中はがきが多くなります。
統計を取ってる訳ではないのですが、確実に増えているのは間違いないでしょう。

実際私の場合代、今年は実兄と、義母を亡くいるので、喪中はがきを出すべきなのでしょうが、昨年(2018年正月)の年賀状に 翌年(つまり2019年)より、年賀のご挨拶は失礼します旨を書いて、最後にしてます。
が、しかし、11月末から喪中はがきが何葉か届いています。
恐らくですが、年賀状も届くと思います。
どうしたものか?

年賀状はそもそも、退職してから出すようになりました。
それ以前の35才から退職した55才までの20年間、お正月に日本にいたことがなく、世界の各地からお正月リポート的に 現地から絵葉書を送っていました。
ほとんどが、世界の遺跡巡り先で知り合った旅好きの人たちへでして、会社・親戚関係への年賀状は皆無でした。
退職してからの年賀状は、近況報告の意味を含めて、元勤務先、仕事関係、親戚などに送っていましたが、古稀を迎えた 2018を最後に出す事を止めます。
私の場合、知りたいと思う友人などは、ネット上のホームページ・掲示板、SNS、ここのようなブログなどで解るのでいいか! と云う理由です。
webデザイナーと云う仕事柄、年賀はがきを書くこと、デザインすることは嫌いではないのですが・・・ 何か、退職して、古稀を迎えてもから社会と繋がっていたい・・・未練がましいと思われるのが嫌なのかもしれません。
さて、喪中はがきをいただいたら・・・ですが
「年賀状を出さない」だけでいいの?という疑問です。
ネット上に次のような対処を知りましたので引用致します。

喪中はがきが届く時期になりました。
喪中はがきを受け取っても、「年賀状を送らない」というだけで済ませていませんか?年賀状は控えつつも、 挨拶状をいただいたお礼として「喪中見舞い」を送ると丁寧です。
大切な方を亡くして落ち込んでいる時に喪中見舞いが届くと、 その優しい気遣いに温かな気持ちになるようです。
喪中はがきで初めてご不幸を知った場合はなおさらです。
喪中はがきを受け取るだけでなく、きちんと気持ちを伝えましょう。
故人と親しく、今からでもお香典を送りたい場合は、事前に電話を入れるようにしましょう。
また最近は、お悔やみの言葉とともに、お線香やお花などを送る方も増えています。


そして、今日の朝日新聞で「終活年賀状」なる言葉を知りました。
朝日新聞には色々な声が乗っていて、ふーん、そういう風にとらえる人もいるものだと、 改めて考えさせられました。


なるほど、色々なご意見があることを、知りました。
退職して15年、16年目のお正月、果たして何通の年賀状が届くでしょうか?
それらの年賀状には丁寧に、リタイヤ16年目突入の想いと、来年より年賀のご挨拶を遠慮させていただく旨を書いて だそうと、今から文面と、デザインを考えています。


12/17 海外実習生の日本語教育を側面サポートする団体「日本語コスモス」のパーティに出席

12月に入ると、自分自身の所属するNPOの他に、支援している他のNGO・NPOや任意ボランティア団体の暮の忘年会・懇話会に 出席する機会が多くなります。
先週の土曜日は、鎌倉稲村ケ崎のホテルで鎌倉市市民活動センター設立20周年パーティがあり、その翌日から「秩父夜祭」の旅行 に出たりしていた為、体重は見る見るうちに太り、遂に私のリミット67Kgを超えてしまいました。
この67Kgは、退職前の健康診断でドクターストップがかかった体重です。
12月の第2土曜日は例年、日本に来て、鎌倉市周辺に住む外国籍の人々、子供たちに日本語をボランティアで教えている団体の 年に一度の交流パーテイの日で、数か月も前から出席とスピーチを頼まれていたのですが、この体重で参加すると、参加者皆さんが 持ち寄った各国のお料理を目の前にして、体重を気にしながら、ついつい食べてしまう、恐れがありました。
3日前から、体重を気にしながらの生活を続け、当日の朝、体重計に乗ると何週間ぶりに、ベスト体重の65.5Kgまで下がっていたので 喜んで参加してきました。

日本語コスモスは25年前に創設された、一市民団体のです。
創設メンバーの多くは、過去に夫の転勤で一緒に海外に赴任し、ご自身やお子さんの言葉の習得にご苦労された経験があり 時代は、海外の方が日本に仕事、留学、観光などで私たちの隣人として住む機会がおおくなってくるのを見て、設立しました。
設立当時の事を聞くと、生徒さんのほとんどは欧米からの留学生や、短期滞在の観光客が多かったそうです。
今から10年前、この団体の代表者から、新しい生徒さんの募集・獲得と、会員の若返りについて、NPO広報部責任者としての 立場からアドバイス・提言を求められました。
そして、提案したのがホームページの作成です。
日本語はもちろん、ひらがな、英語、中国語でのページ作りを提案し、実現しました。

今でも語り草になつていますがその当時、苦労して3か国語のホームページを造ったって、誰が見てくれるの?、 生徒さんが増えるの?と組織内では云われていました。
しかし、今では「あの時が、日本語コスモスのターニングポイントだったね」と古い先輩も若い会員も話しています。
ちょうど、時代は、インターネットが常時接続でどの家庭でも見れるようになり、携帯・スマホが普及しつつあった時代です。
毎週、日本語コスモスの問合せ欄に、海外からのメールが届くようになりました。
来日前に、日本語学習やボランティアのキーワードで入ってくるようになったのです。
生徒さんが増えると、教える先生役の会員も自然と増えて行きます。
何時しか、近隣の行政の目に留まり、親と一緒来日して入学する小学校の課外授業を委託されたり、企業から出張授業も増えて いきました。
そして、第2のターニングポイントが4年前です。
最初にホームページを立ち上げを担当した方が還暦を迎えるのを機会に、担当者の若返りを図りたい。
ホームページをパソコンでも、スマホでも崩れずに、綺麗なデザインで見られるように改造したい、ついては、30代と40代の若い二人 を教育して下さい、と頼まれました。
確かに、もうスマホ時代は始まっていました。
ホームページではなく、Facebook、ツイッター、インスタグラムのほうが、圧倒的に若い世代に支持されているのです。

その象徴が2018年12月の「日本語コスモス」のパーティ参加者メンバーです。
昔は、欧米の方が中心でしたが、徐々に増えてきたのが、韓国・中国からの赴任者の家族です。
そして、今日の会場の大半を占めているのが、アジアからの実習生さんたちです。
インドネシア・ベトナム・ミャンマーの若者です。
彼らのネットワークでは、土曜日曜の勤務のない時に、同じ寮で仲間と過ごすより、このような日本語支援ボランティアと人達とふれあい 、ほとんど無料で日本語を教えてもらい、生の仕事以外の日本社会に触れることの大切さを話している、と云っていました。
この日、国会では改正入管法が通過しました。
これからもいろいろな問題が起きるかも知れませんが、このようなボランティアを主とした団体があることを、実習生の方々に 知っていただければ幸いです。
日本語ボランティア コスモス


12/9 予ねてから一度は見たい祭り、秩父夜祭を見に行ってきました。

一般的に日本の三大曳山祭りと云えば、「京都祇園祭」・「飛騨高山祭」と秩父の夜祭」と云われており、特に秩父は激寒の時期 の夜に行われ、同時に冬空に咲く大輪の花火で有名です。
写真・映像をやる人間は一度は、これを自分の手で撮ってみたいと思っています。
昨年、計画したのですが、大祭礼の12月3日がちょうど日曜日と重なり、凄まじい混雑が予想されましたので、避け、今年の12月3日 は平日、そして暖冬ということで、12月3日もどんなに遅くなっても良いように、ホテルもとりました。
当然なながら、秩父市内のホテルを取れるはずもなく、ネットとヒットしたのは、西武秩父線の始発駅近く、西武秩父駅から1時間の (※距離的には電車で30分もかからないのですが、単線、特急まちなどで倍の1時間かかります)東飯能にホテルをとって準備万端 下のような写真をとるぞと意気込んででかけました。
着いたのは、夕方4時です。

しかし、甘かった。
事前調査不足でした。
秩父夜祭は、6地区の町内会の「屋台」・「鉾」が各々町内から、秩父神社に集まり、「御旅所」と云う場所まで巡行するのです。 私たちが知っている、イメージしている写真のは、この「御旅所」に集まった各々の「屋台」・「鉾」の背景夜空に、大輪の花火が 浮かぶ姿です。
しかし、この場所はこの日だけ設けられた、市役所前の有料観覧席です。
一般の人は入れず、秩父神社から「御旅所」まで道路(当然警察によつて規制されており、 歩道のみ通行も制限されます)で場所取りが最低3時間前から必須なのです。
そして、12月の秩父の寒さ、暗さ、肝心の花火はあがる物の、屋台との2ショットは至難の業です。
6台の屋台・鉾の通過は2時間以上かかります。
京都祇園祭でもお馴染みの、道路の角を廻る為の曳き回し箇所が3か所と、「御旅所」手前の最後の難所団子坂があるからです。
場所取りで、歩道から無料で眺められる「聖人通り」に5時から座り始めて、最初のお神輿・神馬の通過かが7時頃、最後の屋台通過 では10時になっていました。
都合5時間、椅子もない道路にしゃがんだり、立ったりの5時間です。
一体、誰のための秩父夜祭なのか? 勿論地元秩父の人々の昔から伝わる宗教的な意味合いの祭りで、観光客目当てではないのは明白なのですが、実際には 屋台が集結する「御旅所」は市役所前の大広場で、この12月3日に限ってここには有料観覧席が設けられ、6,000円の入場券を 持たない人は入れないのです。
確かに新聞報道によると、2日間で20万人が、この埼玉北西部の山間の小さな町に集まるのですから、何らかの安全対策を する必要があるのでしょうが・・・、しかしこの「御旅所」の申し込み・抽選方法にちょつと疑問があります。
だって、大手ツァー会社がなんで入れるの?、ネット・郵便申し込みで一人で4席までのはずなのに。
少し、訳がありそうです。
大手旅行会社のツァー募集で観覧席を確保とあるのは、この公式な場所「御旅所」ではなく、団子坂の手前の私有地や、聖人通りに設けられた 観覧席で、この辺りは通過する屋台は見れますが、照明で明るく、六台の屋台・鉾が集結した背後に花火があがる「御旅所」のような 絶好のロケーションではないのです。
「御旅所」にしても、欠点があります。
スターマイン花火は、この「御旅所」からは見れない方角にあがるのです。
スターマイン花火を見る絶好の場所は、道の駅の隣のショッピングセンターの駐車場です。
今回の秩父夜祭初心者の反省点
・欲張らない、何を見たいのかと焦点を決めること
・六台の集結と背後の花火なら、抽選を期待して「御旅所」
・花火だけなら、最初から道の駅へ周辺へ
・夜は屋台芝居、屋台曳き踊りはないから、日中に行く
・夜の秩父の屋台は、京都祇園祭と違って、鳴り物がないので、つまらない。
結論は
昼間見て、夜の10時過ぎまで屋台の巡行、花火までは12時間以上必要となります。
特に夜は、長時間寒い場所での場所取りが必要となるので、理想は前日、当日の二晩ホテルを確保し、休憩しながらスケジュールを 組むのが最適でしょう。
しかし、この時期と徒歩圏内の宿の確保は難しいでしよう。
体力・好奇心が旺盛なら、車で移動、車内で休憩・仮眠が一番自分のペースで動けるのではないでしょうか? 但し、12月3日は、秩父市内の駐車スペースは制限がかかりますが。



12/3 定年後シニアの旅 53年ぶりの博多 その2 関門トンネルを歩く

旅の2日目は、門司レトロ地区から、先月のNHK72時間で取り上げられていた、関門人道トンネルを歩くことです。
昔、17才の高校二年生の春、当時若者に流行っていた、リュサックを背負ってリーズナブルな旅をする大学生のカニ族に憧れ、 少しませていた高校生の私は、昭和39年の春、名古屋発券の九州内二週間乗り降り自由の均一周遊券(当時3,750円)を手に 生まれて初めての九州の地は、門司駅でした。
当時まだ寝袋は高価でしたので、毛布一枚をリュックに背負い、初めての夜は、門司駅構内のベンチでした。
その夜、駅員さんと警察官に囲まれました。
何処から来て、何処へ行くのか? 何歳、高校二年生? 先生の名前は?、校長先生の名前は?と立て続けに質問されました。
当時、カニ族が流行り初めていたのですが、丸坊主の高校生だった私は、家で少年と間違われた様子です。
学校はまだ春休みじゃないだろうに。
当時の信州の学校は、夏休みが極端に少なく、冬の寒中休みがあり、春休みは途中、卒業式・終業式に一日でるだけでしたので 一か月近い春休みがあったのです。

大都市博多から鹿児島本線快速で1時間20分で鹿児島本線終着駅門司港に着きます。
門司は近年、昭和モダンレトロをテーマにした観光町おこしの真っ最中です。
門司港駅も、昔ながらプラットホームや駅舎に現在改装中です。
今回は目的の一つは、NHK72時間で取り上げられていた、関門人道トンネルを歩き、下関へ渡り、帰りは関門フェリーで戻ってくる プランです。
NHKの番組を見ていると、多くの人が毎日、散歩がてら健康を兼ねて歩いているように見受けられましたが、トンネル入り口は 門司港からはかなり遠くにあり、バスの便は、かの松本清張の小説「時間の習俗」の大きなアリバイに使われる「和布刈神社」ですが、本数は極端に少ないのと、廻りは関門水道が見渡せる、美しい地なので、旅行者は皆さん歩きます、

初めて、じっくりと関門水道を眺めてみると、潮の速さにびっくりします。
海峡はまるで川のような速さで流れていました。
対岸の下関側に電光掲示板があり、この日9ノットでした。
1ノットは1852メートルですから、この海峡の潮の速さは時速16kmですから、平均的な自転車の速さなのです。
お天気も良く、途中から門司にお住まいで週に一度は歩くと云う同じ団塊世代シニアの方と一緒に、説明を受けながら、 トンネルに入りました。
人が歩ける国道ですから、歩いて渡るのは勿論無料です。
長さは780m、歩いて15分もかかりません。
海底部(780m)は、海面下58mに位置しています。
トンネル内で、九州から本土に入り、エレベーターで上がると下関です。
門司側と違って、下関側は古くから観光開発が進んでいます。
そして、門司側と違って至る所に観光名所が存在しています。
先ず、目に着くのが長州藩の馬関戦争の記念碑です。

1863年、長州藩は、攘夷じょういを実行するため、他藩にさきがけ関門海峡かんもんかいきょうを通る外国の船を2度(第1次・第2次)に渡り、 砲撃ほうげきしました。
しかし、翌月、近代的な兵器を備えた列強れっきょうの反撃はんげきにあい、長州藩は、あえなく敗れてしまいました。
さらに、1864年には、イギリス、フランス、アメリカ、オランダ4国の連合艦隊れんごうかんたいから、17隻の軍艦により下関が大規模な攻撃を受け、 長州藩は、関門海峡で戦争を行うこととなりました。
 馬関ばかん戦争と呼ばれるこの戦いで、長州藩は惨敗してしまいますが、講和後は急速にイギリスに接近し、それまでの素朴な尊王攘夷論 を開国尊王倒幕論へと大転換し、幕府との2度にわたる戦争をへて、明治維新へと突き進んでいきました。

これらの幕末の長州の遺跡の他に、歴史を遡って、平家の壇ノ浦があったり、宮本武蔵と佐々木小次郎の巌流島があったり、耳なし芳一のお寺が あったりして、歴史好きには楽しい所ですが、全くの歴史音痴、大河ドラマ大嫌いのカミサンには、退屈する場所のようでした。
しかし、大観光地なので、お土産もの屋さんが沢山あり、楽しんだ様子でした。
門司港の帰りは、唐戸から対岸まで5分フェリー(400円)で戻りました。
JR門司港から博多への電車時刻表を見ると、直行は少なく、快速は1時間に一本しかないので、小倉まで行くことにして、切符を買うことにすると 駅員さんがから小倉で特急ソニックを薦められました。
JR九州の自慢の木をふんだんに使ったデザイン列車です。
しかし、特急料金が発生するので躊躇すると、JR東日本にはない、二枚切符と云う割引率が高い二人で使える回数券なら、快速よりも二人でプラス 140円高いだけで、40分も早く博多に着くと説明され、乗ることにしました。
いつも、ネツトで時刻表を調べ、スイカがつかえるかどうかだけの判断でしたが、地方には、お得な切符が沢山あるようです。

3日目は、定番の大宰府と博多市内観光です。
博多の大観光地大宰府は、17才の少年の頃は来ていません。
当時の国鉄均一周遊券ではこれない西鉄路線だからでした。
私たちのイメージでは、博多と云えば大宰府なので、市内とばかり思っていましたが、地下鉄を乗り継ぎ、西鉄天神・二日市乗換です。
3つ乗り換えると云う、公共交通機関に不慣れなシニアが多いなか、大宰府の観光客の半分は、アジア系の観光客でした。
彼らは、一様にスマホ片手に、博多からスムーズに乗換てきているのです。
ガラケーの私たちは普段何不自由ないのですが、やはり、旅先ではスマホは便利なようです。
12月、ガラケーのバッテリーが不調なので、ついにスマホに切り替える予定です。

博多市内の観光って何処へ行く?
博多は食べ物は名物が多いのですが、では観光って大宰府以外何処に行ったら良いの? ガイドブックは、ラーメン・水炊き・もつ鍋の紹介や、若者向けのショッピングセンターの案内ばかりです。
最終日、大宰府に行って帰ってきて、15:30のフライトまでの時間つぶしに私たちが選択したのは、博多名物「博多祇園山笠」を 展示している中洲川端の櫛田神社周辺の下町でした。
地図で見ると、地下鉄二駅ほどなのですが、私たち歩く派からすると博多駅から徒歩15程度の距離なのです。
ここの博多博多工芸館のおねーさんに紹介された博多最後のランチは、名物博多うどんでした。
ほとんど観光客の来ない庶民的なお店で値段も安く、味もボリュームも満点でした。
しかし、何故かお客さんは、アジア系の観光客が半分ほどいます。
日本のネットではヒットしないのに・・・・「ウエスト 川端店」☆4つの評判店でした。
帰宅して、18時に鎌倉に着くと、この時間の博多と違って駅周辺は真っ暗、やはり博多は大都会なんです。



11/28 定年後シニアの旅 53年ぶりの博多 その1

65才を機に国内旅行旅行に切り替えてから、ほぼ毎月、2泊3日一都市滞在型旅行に出かけています。
ここふた月は、カミサンの母親の看護とお葬式で休んでいましたが、一段落しましたので、11月から再開しました。
今回は、博多のシティーホテルに2泊して、ここを拠点にしての周辺の旅です。
博多に行くと云うと、何しに?、観光と云ってもせいぜい、太宰府天満宮しかないじゃないの? 確かに、食べるものは沢山あるけど、2泊は必要じゃないのじゃ・・・と云う声がきかれましたが。
しかし、一泊二日では、羽田から朝一の飛行機を使っても、翌日はもう帰らなくてはなりませんので、70才と67才の シニアリタイヤ夫婦にとっては、忙しすぎますので、やはり、最低2泊3日は必要です。
今回の費用は、ANAのホテル&フライトパックです。
往復のフライト時間とホテルのカテゴリーにより料金は当然違います。
今回は、行きは8時台、帰りは16時台とし、ホテルは、博多駅に近い、ハイアットリージェンシーを選び、二人で7万円でした。

一日目のメイン観光は、「嵐」のCMで有名な、光の道の神社「宮地嶽神社」です。

博多駅からJR快速で25分の「福間」にあります。
ここの神社でのメインは、夕方の日没の夕陽ですから、まだ時間がありますので、10時半にホテルに荷物を預け、 先ず目指したのは、博多ポート周辺です。
11月25日日曜日、この日は大相撲九州場所の千秋楽の日でした。
首都圏に住んでいるので、大相撲は、国技館にいけば見れるのですが、なかなか行く機会がないので、ちようど時間 調整と、福岡と韓国の釜山を結ぶフェリーの発着する、博多港と大相撲が行われている会場が徒歩圏で繋がって いるので、時間調整で行くことにしたのです。

博多は予想以上の大都会でびっくりしました。
現役時代は毎日東京都内へ通勤し、仕事柄大都市東京の最先端都市計画に携わったいましたので、地方の大都市へ行っても さほど驚かなかったのですが、退職して15年、関東首都圏と云っても、神奈川の一都市鎌倉に住んでいますと、大型ビルや ショッピングモールもない田舎ですから、九州一の大都市、博多の賑わいにはびっくりしました。
大相撲会場へは、100円バスで15分と近く、イメージどおりの相撲の幟が立ち並び、力士達の姿が見受けられました。
会場の国際展示場の裏が、博多港です。
港には、大型クルーズ船が停泊しており、この周辺のは、アジアの観光客で溢れていました。
特に韓国からの観光客の姿が目につきます。
お店の人の話では、釜山からフェリーで日帰りで遊びに来ているそうです。

時間調整をして、JR鹿児島線快速25分の福間の「宮地嶽神社」に向かいます。

「宮地嶽神社」の参道に真っ直ぐに光の道が出来るのは、2月と10月の年2回の日しかないのは解っていました。
真っ直ぐに光の道を見るためには、年に2回、それもお天気次第なのです。
私たちは、真っ直ぐに夕陽が神社の参道を照らさなくても良いから、その雰囲気を味わいたくて来たのです。
この博多の3日間お天気を調べ、前日まで、博多の観光予定を変更し、この日夕方は快晴と判断して、やってきました。
3時半にJR福間駅に到着し、駅から神社まで1.8kmをのんびりと歩いて行くことにしました。
私たち夫婦は、二人とも車の免許は60才で更新しませんでしたので、日本中どこでも、公共交通機関を利用するか、ない所は 4km前後までは、ひたすら歩くことにしています。
普通、旅先では、1日15,000~20,000歩は歩いています。
特に、京都の桜や紅葉の季節は、京都市内のバスは渋滞で動かないので、地下鉄から遠い場所は、ひたすら歩いています。
定宿の三条・河原町のホテルから清水寺は、完全に徒歩圏内ですから、京都の場合、日によっては3万歩あることもあります。
この日は、薄曇りの晴天で夕陽は拝めそうでした。
「宮地嶽神社」はネット情報なのでしょう、日本人よりもアジア系の若い観光客が多く見受けられます。
そして多かったのは、日曜日なので「七五三」のお祝いの家族連れです。
ここの神社の大注連縄は、出雲神社のしめ縄よりも、大きく日本一の大注連縄なのだそうです。
台湾から若い観光客が手にしているのは、「嵐」のCMの写真集でした。
情報通り、夕陽は参道よりも2,3度ズレており、光の道になりません。
それではと、この参道の先、神の島「沖ノ島」の玄界灘に沈む夕日を撮影しようと、海岸までの一直線を歩きました。
玄界灘に沈む夕日を眺め、帰路につきました。

博多駅に着くと、博多駅前は、光の洪水です。
大がかりのイルミネーションの光と音に溢れて、大勢の若い世代が楽しんでいました。
博多は大都会、東京オリンピック、大坂万博もあるでしょうが、これからは地方の時代なのかも知れないと、感じた1日でした。

博多その2に続く



11/19 マイケル・ムーア映画「華氏119」とかつての私の戦場桜木町近辺

最近の週末天気予報は良い方向に外れ、今週もお天気に誘われて横浜・桜木町へ出かけました。
関内は、毎月一度は各種サポートがあるので出かけますが、桜木町はなかなか下車しない駅です。
昔、南米に向かう船に乗る為の故郷から出てくる時さいの最寄り駅でした。当時は現在桜木町のシンボルとして 建つ、ランドマークタワーは、三菱の造船所・ドックがあり、懐かしい思い出が詰まっている駅です。

まずは、桜木町のブルグ13で、マイケルムーアの「華氏119」です。 8:50分。一日一回の上映に間に合わせて朝早くからきましたが、観客は20人もいませんでした。
マイケルムーアは確かに、商用・娯楽映画ではなく、メッセージ性の強いドキュメンタリーなのですが、 日一回上映で、観客は十数人とは。それでも上映してくれるだけで感謝しなくては。
私が定期的に映画を見に行く109シネマ湘南は、このようなマイナーな映画は全くやらず、子供向けアニメ・ 荒唐無稽のハリウッド映画、宣伝広告費を何十億と使った超大作ばかりです。
最近、伊勢佐木町の良心的な作品を多く上映してきた小さな名画座も姿を消したばかりです。 自宅から30分以内の場所で、上映していいだけるだけで感謝しなくては。

マイケル・ムーア映画「華氏119」の内容
タイトルの「華氏119(原題:Fahrenheit 11/9)」は、トランプの大統領当選が確定し、勝利宣言をした 2016年11月9日に由来しています。
ムーア監督の代表作であり、当時のジョージ・W・ブッシュ政権を痛烈に批判した「華氏911(Fahrenheit 9/11)」に 呼応するものになっており。16年の大統領選の最中からトランプ当選の警告を発していたムーア監督は、 トランプ大統領を取材するうちに、どんなスキャンダルが起こってもトランプが大統領の座から降りなくても すむように仕組まれているということを確信し、トランプ大統領を「悪の天才」と称する。
今作では、トランプ・ファミリー崩壊につながるというネタも暴露しながら、 トランプを当選させたアメリカ社会にメスを入れています。

アメリカは私たちが思い描く、誰でもが平等にアメリカンドリームを掴むことができる国ではなく、同じ 自由主義・資本主義国家のなかで最も、貧富の格差、人種による不平等がまかり通っている国、国民皆保険がなく 、国民の健康は全て、大資本の保険会社、製薬会社、そしてそれらの企業から莫大な資金援助をうけている 共和党・民主党の政治家たちの手に委ねられていると告発しています。
それでも、アメリカは偉大なのかも知れません。
このような政府・大統領を告発し、莫迦にする映画を撮る監督でいて、それを上映できる資本・国民が 存在するのですから。 見終わって・・・「日本にそんな映画監督がいるか?、製作費を出す企業家はいるか?」








見終わって、桜木町から横浜駅まで歩きます。
桜木町駅構内には、桜木町駅の今昔の写真が展示されています。
桜木町は鉄道が新橋・横浜間に開通した時の旧横浜なのです。
そして、そのなかの一枚戦後の桜木町駅を良く知っています。私のなかではついこの間までの、渋谷から の東横線の終着駅の桜木町駅の写真です。

横浜博覧会を覚えていますか?
1989年(平成元年)に神奈川県横浜市の現在のみなとみらい21地区で、横浜市制100周年、横浜港開港130周年を 記念して開催された博覧会です。
当時私は41才、横浜駅から横須賀線二駅の駅前大開発マンション群の第一号棟に住んでいました。
東京勤務でしたが、世の中、バブルは弾けておらず、今では考えられないのですが、東京の超大型現場を担当しながら 自宅が近いだけの理由で片手間で横浜万博パビリオンを数多く手がけ、終った後は跡地には、雨後の筍のごとく、 オフィスビルが建設されていくのです。

東京の現場をひと回りし、渋谷から東横線急行で向かうのがこの桜木町駅でした。 この国道旧16号線、上を東横線が走る高架下の通路は、当時落書きだらけでした。そしていつしかここは、 グラフィティアートのメッカとも云われるようなっていくのです。
消しても、消しても書かれていく、落書き。
しかし、それも東急東横線の地下鉄化で、この高架は取り壊されるか、保存するかとなり、何時しかこの 桜木町名所も落書きは消され綺麗になりました。・・・と思っていたら、高架下の道路に名残りが残って いました。
写真を撮った後に気が付いたのですが、あれ、この踏切は何なんだろう?
こんなところに、電車は走っていないし、この場所は元の高島町駅あたり、東横線高架前のな残りなのか? それとも、三菱造船の引き込み線の跡なのだろうか?

映画を見に行こうと出かけた朝の朝刊で、この東横線高架下の活用・開発を巡る記事がありました。 横浜市は創造都市構想を打ち出し、アート・芸術での町づくりを進めています。、東横線高架の上は遊歩道として 残し、高架下を若い芸術家たちのシェアスタジオとするプランのテストケースとして、今、先進的な若い 芸術家に、この高架下にブースを貸し出しています。
見学に訪れて若い芸術家に話を聞きました。
何と有料だと云うのです。幾らなのかは聞きませんでしたが、利用価値が決まっていない、ガード下、高架下なんだから ただで貸せばよいものを。

私にとって「横浜みなとみらい地区」は、古戦場
団塊世代の40代の半ばから50代にかけての働き盛り、日本はバブル景気に沸いていました。
工事部署の責任者として、バブルの象徴と云われた「東京都都庁舎」を側面サポートしながら、 部内のメンバーをこの「みなとみらい地区」のオフィスビルに宛てていたのですが、私より上の年代は次々に、内臓系が原因で 倒れ、入院したり、若手は仕事量のストレスで出勤できないような状況になり、全て責任が私の元に押し寄せて来たのです。 今思い出しても、仕事人生で一番苦しい時期でした。
ストレス退社・病気原因で退社・最悪のケース自死までありました。
あれから20数年、再び横浜駅・桜木町から眺める、みなとみらい地区のビル群は、かつての戦場に散って行った、建設 エンジニアの墓標に見えます。
私自身も、未だに絶対に近寄りたくない高層建築が横浜西口にあります。
あの当時の苦しみ、辛さ、不安感を思い出すので嫌だからです。
でも、あの辛い、嫌な現場があったからこそ、55才早期退職を決意できて、私の今の老後があるのですから、 何時かは、あの建物に入り、最上階のレストランで食事して、この辛い・苦い思い出を消し去りたいと思っています。



11/12 鶴見の沖縄タウンと曹洞宗総本山「総持寺」を知っていますか?

日本経済がバブルの頃、南米アルゼンチン・パラグアイ・ボリビア・ペルーの日本人移住者の子供・孫、少しでも 日本人の血を引く、日系人が日本で働くことが出来るようになって、大勢、私が働く都内の大型ビル建設現場にやってくるようになり ました。
スペイン語が堪能で、南米に日系の友人の多い私は、安全教育を担当したり、労働条件の改善などのサポート を進んでしていました。





彼らの提出する安全書類住所のほとんどが、横浜市鶴見区仲通周辺に集中しているのです。
協力会社に聞いてみると、鶴見周辺に南米日系人の就職仲介会社が数社あり、ほとんどの南米日系人はここを頼って 来日し、三日後に全ての在留資格書類が整って、働き始めるそうです。
1989年、バブル真っ盛りの頃、20才のボリビア来た日本語が拙い青年は、来日2日目の日給は18,000円だったことを 今でも覚えています。
当時ドル換算すると、彼の田舎の1か月分の給料だったのです。

この地に沖縄県出身の方々が多いのは、戦前から京浜臨海工業地帯として、全国から多くの労働者が集まり、特に 戦前大きな産業のない沖縄から集まるようになりました。
戦後、アメリカ軍に占領された沖縄に帰れなくなった人々が住み始めたと云われています。
バブル期の南米日系人、特にボリビア・ペルー・アルゼンチンに住む日系人の7割が沖縄県出身だったため、 来日する日系二世・三世がこの鶴見に集中して住むようになったのです。
ちなみに、ブラジル日系人はこの鶴見にはそう多くは有りません。
ブラジル日系社会では、ペルー・ボリビア・アルゼンチンは沖縄県人はマジョリティではないのです。

新聞紙上で、この鶴見で「つるみうちなー祭り」が開催されるのを発見しました。
あのバブルの頃、一度は行って見たかった場所です。
沖縄タウンのある場所は、鶴見駅から少し離れた、鶴見区の仲通商店街を中心とした一角です。
駅からのバスもありますが、のんびり歩いても、国道15号線を横断し、鶴見川を渡って、さらに歩くこと5分ほどです。
「仲通1」の信号を左へ曲がれば、そこが仲通商店街です。
「つるみうちなー祭り」は、乗り鉄ファンなら一度を乗っておくべき路線の一つ鶴見線の「浅野駅」の隣の入船公園 でした。
「つるみうちなー祭り」は11月10日、11日と2日に渡って開催され、2日目の午後には沖縄のスター「BIGIN」も出演します。
屋外の公園での開催ですから、もちろん入場無料ですが・・・撮影は禁止とかかれていました。
私が行った、11月10日(土)は11月と云うのに、22℃の暑さでした。
ステージ及び公園内は、エイサー、三線、指笛の音で溢れ、廻りは沖縄料理・グッズ・お土産物で溢れ、まさにリトル沖縄でした。

鶴見総持寺のSDGs仏教と音楽のイベント





「つるみうちなー祭り」から鶴見駅に戻ると、名刹「總持寺」山門近くに仏教xSDGsx音楽の大看板を発見、 今、私たち市民活動団体のなかでの流行りのSDGsの文字と、仏教と音楽、どんな関係があるの、 と行ってみることにしました。
ちなみにSDGs(持続可能な開発目標  Sustainable Development Goals)とは、国際社会が決めた“ 2030年までに達成すべき17の目標”のことです。
目標1
貧困をなくす
目標2
飢餓をゼロにする
目標3
すべての人に健康と福祉をもたらす
目標4
質の高い教育の普及
目標5
ジェンダー平等を実現する
目標6
安全な水とトイレの普及
目標7
手ごろな価格のクリーン・エネルギーの普及
目標8
ディーセント・ワークと経済成長を両立させる
目標9
産業と技術革新の基盤をつくる
目標10
人や国の不平等をなくす
目標11
住み続けられるまちづくり
目標12
責任ある消費と生産
目標13
気候変動に具体的な対策を取る
目標14
海の豊かさを守る
目標15
陸の豊かさを守る
目標16
平和、正義と充実した制度機構
目標17
パートナーシップで目標を達成することはなぜ大切か
市民活動を支援するNPOの広報部リーダーですから、SDGsが何かを知っていますが、お寺さんは音楽とコラボするのは国連の掲げた 17の目標のうちのどれなのか、と思って行ってみました。

本堂の前には大屏風の前に大太鼓とドラムセットがあり、大太鼓がドラマチックに、強弱・静乱に叩かれ、70人ほどの若い お坊さんが一緒にお経「般若心経」を唱えるのです。
昔、地元善光寺で弦楽器と読経のイベントを経験したことを思い出しました。 午前中に行った、沖縄祭りのエイサー、三線、指笛とは違った、壮大・荘厳なオーケストラのようでした。

総持寺は臨済宗の総本山ですが、今回のイベントは「浄土真宗」に属する10派の僧侶青年団の企画イベント とのことで、宗派を超えた若い仏教界の若者の集いに、これからの仏教界の未来と彼らの想いを感じました。
来年の初詣も此処に、しよう。


11/05 何時かは行ってみたい日本国内の世界遺産

毎週土曜日の朝日新聞Beの紙面で、読者アンケートランキングを掲載しています。
私たち夫婦は5年前に海外旅行、海外の世界遺産行脚の旅を卒業して、現在国内旅行だけにしています。
海外旅行を卒業した時点で、「国内のいつかは行きたい所リスト」を造り毎年少しづづクリアしていくのですが、 新たに知る、名所・絶景が多く、いっこうにリストは減っていないのが現状です。

1018年現在、日本国内の世界遺産は22か所あります。
朝日新聞読者の国内世界遺産ランキングは以下のとおりです。

  1. 屋久島※
  2. 知床
  3. 法隆寺地域の仏教建造物
  4. 姫路城
  5. 白川郷・五箇山の合掌造り集落
  6. 厳島神社
  7. 古都京都の文化財
  8. 古都奈良の文化財
  9. 小笠原諸島※
  10. 白神山地
  11. 平泉
  12. 長崎と天草地方の潜在キリシタン関連施設
  13. 原爆ドーム
  14. 紀伊山地の零場と参詣道
  15. 琉球王国のグスク及び関連遺産群
  16. 富士山
  17. 日光の社寺
  18. 「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群※
  19. 石見銀山遺跡との文化景観
  20. 富岡製糸場と絹産業遺産群※
  21. 「ル・コルビュジェの建築作品」
  22. 明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業

印は、未だ行ったことのない場所です。
屋久島・小笠原諸島・神宿る島と富岡製糸場の四か所です。
他の地域・場所は完全に全てを知ってるか、行っているかと云うと、世界遺産対象になっている 全てではなくごく一部かもしれませんが、一応全て個人旅行ベースで、現地のガイドさんに案内されて 歩いて見て来た場所です。

富岡製糸場は湘南からJR線で行ける、却って身近すぎて何時でも行ける場所として残している場所、 足柄フラワーパークの大藤と一緒に 行く予定です。
残りの3つは、何れも島です。
アクセスが船以外にない場所、関東首都圏から遠く、思った立ったらすぐに行動に移せるような場所ではなく、ちゃんと事前に 計画を立てないといけない場所と云う制約があります。
が、・・・少なくとも、最低限後期高齢者と呼ばれる年齢までには、 現在登録されています日本の世界遺産はクリアしなくては、 と思っています。


10/29 定年退職後の年金シニアの一週間と一日のスケジュール

退職して毎日が日曜日になると、何をして良いのか解らない、不安である。
よく巷で云われている、時間を持て余す退職シニアは

  1. 図書館へ行くか?
  2. ショッピングセンターの家電ショップでブラブラするか?
  3. 学習センターに行ってさして興味もないけど暇つぶしのサークルがないか探すか?
  4. 多少お金がかかるけど、スポーツクラブで汗を流して、風呂に入るか?
  5. 一番したいのは部屋で、パソコンに向かっているのが一番だけど・・・家族が
  6. 時給最低賃金のバイトでもするか?、みっともない仕事は御免だけど
皆さん、同じです。
相当現役時代から夢・趣味・専門技術そして、経済力を持っているかた以外は そんな皆さんに参考になるかどうか解りませんが、私の一日と一週間の時間と空間の過ごし方を ちょつと抵抗がありますが、ご紹介します。

基本的な一日は

AM6:30
起床 体重・血圧を測り(この季節血圧は上昇気味、本日128の82、体重は退職時と全く変わらず、65.3~66.3Kg)
朝食(パン・サラダ・卵・ヨーグルト・コーヒー)はほぼ結婚していら40年間変わらず。
カミサンに別日替わりメニューをオーダーする、そんな勇気は私にはない。
AM8:00~
自室でパソコンに向かい日課の作業
  1. 体重・血圧を記録し、日記代りに前日のコメントを書く
  2. メール・フェースブック・掲示板のチェック
  3. 自分のサイトとサポートしている団体サイトのアクセス数をエクセル記録
  4. 天声人語の書き写し清書  凡そここまでが毎日の日課
AM10:00~
  1. あるブログサイトの投稿を記述 3日で2記事を基本にしてます。
  2. 自分のサイトのブログ記事・鎌倉リポートの準備 1週間に1記事が基本
AM11:15
早めの昼食、2日に一度は一人、基本的には夫婦とも各々自炊が原則
AM12:00
12時45まで昼寝、習慣となり、これでは絶対に外で働けないのは明白
PM13:00~
午後は週間スケジュールによる
  • 月曜日 原則としてNPOセンターにて、広報に関する仕事・打合せ
  • 火曜日 スポーツ バドミントンクラブ
  • 水曜日 NPOセンターにて、web講座(上級スマホレスポンシブ)講師
  • 木曜日 スポーツ ラケットテニスクラブ
  • 金曜日 NPOセンターにて、web(初級html)講座講師
  • 土曜日 フリー 今週の場合 人権団体の映画鑑賞
  • 日曜日 フリー 自宅内
PM18:00~
年間通して早め、18時からの夕飯
PM19:00~
21時まで、カミサンと二人居間でテレビを見る
PM21:00
夫婦ともに各々の部屋に戻り、自室で過ごし、勝手に寝る

私の場合、webプログラマーとしての技術背景と、ボランテイアとしての居場所があるので、ある程度、時間 の潰し方は1週間固定となっています。
しかし、それらは絶対的な義務でもないので自分たち旅行や突発の用事は、これらの日課より優先させています。 これが何時まで続くは解りません。
特に、来年3月で現在、私の所属する中間支援NPO団体が指定管理制度の元で運営している「市民活動センター」 2か所の契約が切れるので、10年続いていると云っても、確約は出来ず、今まで数度の指定管理業者の入札が 私たちの団体だけしか応募してこなかったのですが、来年の契約入札には、どうやら大手組織が入札する構え ですから、私の今のスケジュール、NPOを核とした日々の過ごし方が続くとは限りません。

何時かは、誰でもが、自分なりの退職後の時間の使い方、過ごし方は自然に成り行きで決まっていくものです。 ご参考にして下さい。


10/22 日光に行きたしと思えど・・・日光は遠い・・今年はいけない理由は

昨年の夏、日光で龍頭の滝や湯滝を初めてみた時、絶対にこの雄大な滝の流れと紅葉の風景を動画に撮ろうと決意しましたが 結局昨年は行けませんでした。 今年は、絶対に行こうと、手帳にめぼしい日に印をし、10月に入るとネットで日光の紅葉状況とお天気を調べる日々が 続きました。
最初に予定したのは10月15日月曜日でした。
10月の2週目あたりから、マスメディア・ネットで日光の紅葉のニュースが多くなりはじめので、平日大船から日帰りで行く 計画を立てました。

交通費 JR+東武 2,911×2=6,000円
    東武フリーバス  3,000円
食事  1,000円 合計10,000円也

費用は一人分、カミサンは日帰り、駆け足は真っ平のとのこと。他にも理由があるのですが。

大船発06:00→上野東京ライン栗橋、東武乗換 東武日光09:16着
1日フリーバスパスを使い、龍頭の滝・湯滝・華厳の滝を廻って
帰りは
東武日光15時台に出で18時台に帰ってくる予定を造りました。
車に乗れない、免許を持たない、団体観光バスはトイレに不安があるので、移動は全て公共交通機関です。 しかし、日光の天気予報をみていても晴れの日はありません。予定していた10月15日は午前多少の雨の予報です。 紅葉の映像は、光加減で決まりますので、諦めました。





次の予定日は、絶対晴れそうな10月20日、21日の土日です。
マスメディアでは、日光の紅葉は戦場ヶ原から降りてきて、 中禅寺湖・いろは坂は絶好の日と報じています。
となると、いろは坂の大渋滞が予測され、土日はあえてリタイヤシニアは 出かけないほうが良いに決まっているのですが・・・・
9月から始まった、週三の講座があったり、欠席出来ない会議があったりして、 この日しか日光の紅葉のチャンスはないのです。

中禅寺湖湖畔にはいろは坂を9時台に抜けないと、10月20日、21日の土日の紅葉の トップシーズンでは大渋滞にはまる事は解って ますので、金曜日の夜出発し、日光或いは今市周辺のリーズナブルな宿に前泊しようと、 ネットで検索するのですが、全く 空き室はありませんでした。

大船を始発05:09のJRにのれば東武日光08:40着、バス09:05に乗れば辛うじて 「いろは坂」は9時台後半で回避できそうなので 覚悟を決めて、行くことにしました・・・ですが。
今年の夏から、転倒・入院を繰り返しているカミサンの母親92才の容態がかなり 怪しくなってきているのです。

先月まで、毎月一度は顔を見に行っていたカミサンは、ほぼ毎週のペースになっています。 19日に実家から連絡があり、ここ数日が山場ということで、先ずは21日土曜日は中止しました。 と云っても、無事でいてくれても、どんなに日光のお天気が良くても、私だけカミサンの実家近く の観光地に行くこと出来ません。 今年の日光の撮影は完璧に諦めました。

カミサンは、来年もあるじゃない、と云いますが。 昨年、古稀前の60代ならそうも思えましたが、古稀を迎えた今、カバンに入れた薄型SSDノートパソコンで さえも重く感じる ようになった今、そうだね、来年にしようと、素直に考えられない自分を自覚しています。
来年こそ、他人の撮った写真イメージ加工ではなく、自分の手が撮った動画を掲載したいものです。


10/15 ピースボート世界一周クルーズに誘われても

マンションの玄関で、管理組合理事会で一緒だった旅行好きの友人女性がうかぬ顔をしていました。
手には、ピースボートのパンフレツトを持っており、どうしたのと聞くと、お友達から一緒に行ってと誘われたと 云うのです。
勿論、行く気はないのですが・・・話を聞くと 誘ってきたのは、彼女と同じ世代の退職独身女性で、これまで一度も海外旅行に行ったことがなく、 ずっと一人で暮らしてきた方です。
老後の備えはマンションを二つ持っており、一つは賃貸に出していて、づっと専門職で働いて来たので ある程度の年金も蓄えもあるのですが、古稀を前に、自分の今まで歩んできた人生を振り返り、 残された余生を考え、一世一代の旅をしたくなり、世界一周クルーズを考えたそうです。

でも、一人で参加する勇気がなく、海外旅行に旅慣れたその友人を誘ったのです。
それも、条件をつけて。
一世一代の海外クルーズなら、豪華に「飛鳥」にすればよいものを、これまで節約人生からピースボートを選び
ペアタイプ(窓無し)198万円(早期割引25万)相部屋不可を選択。
どうせその友人を誘っても乗ってこないと見越してこの友人はこの基本料金を持つというのです。
ルートは以下の104間のコース。

横浜 → 大阪 → 香港(中国) → シンガポール → コロンボ(スリランカ) → ポートサイド(エジプト) → サントリーニ島(ギリシャ) → ピレウス(ギリシャ) → カタニア(イタリア) → バレッタ(マルタ) → マラガ(スペイン) → タンジェ(モロッコ) → ポンタデルガーダ(ポルトガル) → ニューヨーク(米国) → ハバナ(キューバ) → カルタヘナ(コロンビア) → クリストバル(パナマ) → イースター島 → パペーテ(タヒチ) → ラウトカ(フィジー) → ブリスベン(オーストラリア) → ケアンズ(オーストラリア) → ラバウル(パプアニューギニア) → 横浜 → 大阪

しかし、この友人は、このパンフに表示されている以外の費用はご存知ないようです。
・ビザ取得代     2万円
・ポートチャージ   4万円
・船内チップ前金   5万円
・現地ツアー代金   30万円程度
・船内有料講座参加費 5~10万円
・それとピースボートの場合、ネット接続従量料金も必要です。
凡そ50万円はかかるのが普通です。

このコースを見ると、全く海外旅行初めての方にとっては魅力的な場所ばかりですが・・・
しかし、旅行好きの友人が行ったことのない場所・地域は、ピレウス(ギリシャ)・カタニア(イタリア) ・バレッタ(マルタ)とスエズ運河だけで、後は全て彼女は行ったことがある場所・地域なんです。
いくら、お友達が基本料を払ってくれると云っても、このような極々一般的な場所に数十万円は 払いたくないのと、 幾ら親しい女性のお友達と云っても、24時間100日も一緒の部屋で暮らせば、 何かしらのトラブルは起きるのは明白と、お断りしたいのですが、どう云ってお断りするのが一番なのか 悩んでいるご様子でした。
それは、正解です。
普通の女性は退職後、亭主との旅行は真っ平御免というのが常識なのですが、 彼女は我が家のカミサンと同様に、旅は個人旅行、団体旅行 真っ平と云う、我が家のカミサンとよく似ているのです。
我が家のカミサンも、常々、通訳・ガイド兼用の亭主と行くのが一番楽と云って友人に呆れ顔されて いるようです。
そうなんです。
この友人女性は結婚していますが、子供はおらず、ご亭主は仕事オンリーで、全く海外旅行には興味がなく 彼女は何時も一人で、世界の秘境を旅している人なんです。

その後、どうなったかはこのところ、同じマンション内とは云え、なかなか顔を合わさないので解りません。


10/8 退職年金シニアの究極の暇つぶし JR線一筆書きの旅

暇人おじさんの究極の暇つぶしとして、以前から大都市圏のJRに限って許容されている、電車遊び があります。
自宅最寄の駅から隣駅まで最短切符を買って、逆方向に乗り、普段乗らないような路線を経由して 最終的に目的駅に行く・・・・合法的な方法で、暇な一日を電車内と乗換駅で過ごす遊びです。


最寄駅の「大船」からとなり駅「戸塚」に行くには、東海道線or横須賀線or湘南新宿ラインで一駅 160円ですが、反対方向へ向かい、茅ヶ崎から相模線に乗って、「橋本」で横浜線に乗り換えて 「東神奈川」経由で「横浜」乗換「戸塚」へ行っても料金は一緒です。
東京都内で東京駅から隣の神田へ行く場合、山の手反対方向品川廻りで行っても、新宿方面に行って 中央線経由で神田に行っても、料金は一緒です。
しかし、誰もそんなことはしません。「タイムイズマネー」です。

しかし、一定のルールがあります。
・途中下車して、改札を出る事は出来ません
・同じ駅を通過することは出来ません
・逆戻りすることは出来ません
・スイカは使えません
・日をまたぐことは出来ません
このルールを守れば、上記東京首都圏のどのJR路線経由しても、二駅間の一枚の切符で 移動することは出来ます。
このやり方は、昔から鉄道マニアの間で知られていたのですが、最近、退職した暇な年金シニア オジサンの間で知られるようになり、一日最短切符で、北関東や、千葉・房総方面を一日電車に乗り 、日長な一日を過ごす遊びが流行しています。

今月、10月の3連休は、マイレージ特典航空券を使って、四国・土佐の四万十川周辺に行く予定でしたが 、台風25号の接近と、カミサンの母親の容態でキャンセルしたので、予定が無くなり、急に暇になったので 以前からから考えている、この遊びにチャレンジすることにしました。
今回は初めてなので、比較的簡単な初級コースです。
これまで、東京首都圏に住んでいながら乗ったことのない、首都圏でもローカル線扱いされている 路線に乗ってみようと云う計画です。

ターゲットの路線は
・相模線 茅ヶ崎から八王子
・八高線 八王子から高崎
・両毛線 高崎から小山間です。
タイムテーブルは今では、ネットで調べれば簡単に解るのですが、旅のお供として、鉄道マニア 必須アイテム、小道具として、時刻表を買いました。

今回の大廻り、一筆書ルート 大船から戸塚までの切符を購入する。
大船07:15⇒茅ヶ崎07:29 乗車14
茅ヶ崎乗換時間18
茅ヶ崎07:47⇒橋本08:46 乗車59 
橋本乗換時間6
橋本08:52⇒八王子09:03 乗車11
八王子乗換時間15
八王子09:18⇒高麗川09:56 乗車38
高麗川乗換時間21
高麗川10:17⇒高崎11:45 乗車1時間28分
高崎乗換時間 52分昼食

高崎12:37⇒小山14:23  乗車1時間46分
小山乗換時間 35分
小山14:58⇒戸塚17:05 乗車時間2時間7分

戸塚で大廻り切符で下車
スイカ利用 戸塚17:18大船17:23
乗車時間 7時間16分 乗換休憩時間 2時間34分
トータル所要時間時間  9時間50分

10月とは思えない、30℃越えの1日。
出発駅の大船に着くころは、車窓は綺麗な夕景でした。
ほぼ10時間、車内と乗換駅で過ごしましたが、思ったよりも疲れず、楽しい一日でした。
これに味を占めて、次は千葉・茨木ルートに挑戦してみましょう。


10/01 チベット難民ドキュメント映画「ラモツォの亡命ノート」

先日のNPOセンターの全員会議の席で、国際的人権擁護活動団体、アムネスティインターナショナルの鎌倉グループ の代表をしている会員から、映画上映会のお誘いをうけてました。
土曜日の夜18:30分上映とあり躊躇しました。
退職シニアおじさんには、土曜日の夜にわざわざ、お金を払って出かけたくはないのです。
でも、ドキュメント映画の内容を見て、その場で前売り券を購入しました。800円は安い。

この映画を造ったのは、日本人女性の小川真利枝さん、撮影・監督、ほぼ全てお一人でやったようです。
映画会の後、会場での小川監督のお話のなかで、この映画を造った動機について語っていました。

昔、バツクパツカーとしてチベットラサに滞在した時、荷物のなかにダライラマの本をいれておいたのを 中国公安に見つかり、数日、暗い地下室で尋問を受けたそうです。
大きな声で毎日、耳元で怒鳴り続けられ、「ダライラマはテロリスト」「国家を分断する政治活動家」と罵って いたそうです。
小川監督は、学生時代からチベット文化、チベット語に興味を持っていて、ついかラサに留学を考えていたのですが この事件以後、留学ビザは無理とあきらめ、それならチベット民族がダライラマとともに住む、インドのダラムサラ に留学を決めました。
そこで出会ったのが、この映画の主人公となる亡命チベット難民「ラモツォ」です。

毎朝、2時に起きて、チベット式パンを焼き、路上で売っている姿・・・映画ポスターの画像・・・を見て、話しかけた のがきっかけでした。
彼女の夫は映像作家です。
2008年の北京オリンピック開催が本当に、中国国民、チベット民族の為になるのかを問う 映画を造り、「国家分裂煽動罪」で投獄されました。
それを機に、家族・親戚への圧力が強まり、全員で標高4,000mの山を越えて、インドのダラムラサに逃れて来たのです。
彼女一家は、夫の両親、子供男子二人、女子二人、6人を養うために毎朝2時起きでパンをつくって売っていたのです。
それでも、何時かは夫の釈放を願い、国際的人権組織の助けを借りて、世界各国に訴え続けるのです。
監督の小川さんは、ラモツォと同じ女性として、彼女の毎日を撮り続けました。
費用を稼ぐ為に日本にいる間は、字の書けない彼女に、小型ビデオカメラを与えて日記代りに撮影記録を続けました。

やがて、「ラモツォ」は国際的に難民サポート団体の協力でインドのダラムサラからスイスの難民キャンプに渡り、 3年後アメリカへ難民申請し正式に住むことができました。
映画は、ラモツォがサンフランシスコに住み始るところから、再び小川監督の手により撮影が開始されます。
難民として認定したアメリカですが、ヨーロッパのようにある一定期間、難民センターで住まい、教育が行われるのと 違い、認定後は政府によるサポートはなく、そのまま自力で生活していかなくてはならない様子が映し出されていました。
その後、4人の子供たちを呼び寄せ、5人のアメリカでの生活の様子があり、ここで映画終了しました。

ここまで見ていた私は、この映画を見て、チベット難民・中国政府のやり方は解った。
でも、このドキュメントの主人公、恵まれすぎていないか?
チベット難民はゴマンといる、彼女はただラッキーだけだったのか?
国際的な組織がこの映画の裏側で動いているのではないか?

映画会が終わった後、このドキュメント映像を作った小川真利枝さんのお話と、非公開の映像が流れました。
夫の映像作家ドゥンドゥップ・ワンチェンさんが、刑務所から釈放され、三年後亡命して、妻の元に姿を見せたのです。
めでたし・・・なのですが・・・

見終わってどこか、人前で公然とは云えない、ある種の違和感を感じました。
私は、この映画上映会を開催したアムネステイインターナショナル鎌倉グループのホームページ作成時の支援をしてきました。 国際人権団体で、世界で虐げられている人々の実態を世に知らしめ、サポートする団体です。
それじたいは素晴らしい市民活動なのですが・・・
映像を造る立場から見てみると、若い日本人女性が、たった一人でここまで作り上げ、商業映画館で上映するには莫大な費用 がかかっているはずです。
主人公女性一家をチベットからスイスそして、アメリカに難民として渡らせるまで、とても個人の力では無理です。
背後にとても大きな資金力・政治力をもった国際的な組織がなくては、なしえないことなのです。

どんな組織なのかは、想像は出来ます。
でも、そんな組織が必要なほど、今の中国は歪な社会であることは理解できます。
私は、今70才、世界中を夫婦二人で旅して、後悔として残っている場所が一つだけあります。
チベットのラサに行けなかったことです。
ラサにいくには、中国政府のパーミッションが必要だったのと、私が標高の高い場所が苦手で、体力的に自信がなくなって 来ているので、もう行けないのと、自覚していることです。

この映画を見て、最後の旅先として、再びパスポートを取得して、一人で、カトマンズの友人旅行社の手配で 陸路、ラサを目指すのを目標とするのも、自分の旅の締めくくりとして、いいかなと思いました。


09/25 樹木希林さんの逝き方は理想かもしれない

先週のテレ東の番組「ユーは何しに日本へ」で、余命一年宣告されて7年生き延びているアメリカ人男性が 一人息子と一緒に18日間日本を旅するのを密着していた。
娯楽番組ではあるが、樹木希林の死と、今年の春、末期がんで逝った兄の死に方と重ね合わせて見ていました。

樹木希林さんは、全身ガンで死ぬ死ぬと云ってなかなか死なず、冗談半分に「死ぬ詐欺」と自嘲していました。
ニュース報道によると、転倒して一時病院で過ごし、帰宅後意識はあり、家族や友人と言葉を交わして亡くなった そうです。
テレ東のアメリカ人男性は、7年間飲み続けている「緩和ケア」の医療麻薬を公表していました。 テレビ画面でみる限り18日間、さほど急激に体調を崩さずに、一人息子との思い出を造って無事に帰国して 行きました。

私の兄の場合、末期がんステージ4と宣告されたのが、昨年の5月でした。
医師からの余命は年内。
新たな治療はせずに、やりたいこと、行きたい所いき、悔いのない余生を過ごす ように云われました。
この時、実家の姉と兄が立ち会って聞いていたのですが、兄はその時の記憶がないようで あまり長くは生きられない・・・とは自覚していましたが、あと数年の命と信じていた様子です。

兄は地元の高校を卒業して、40代で故郷の地に帰るまで横浜で生活していました。
そこで私は、昔、青春時代を過ごした横浜のアパートを訪ねたり、長い間会ってない友人に会うラストジャニーの 旅を計画したのですが、兄本人は、まだそんな気持ちになっていないようでした。
私なら余命半年宣告を受けいれ、自分の生きて来た道、思い出、何を残すか、捨てるかを考え、実行する でしょうが、兄は何もしませんでした。
一人暮らしのアパートで、1日レンタルビデオを見て過ごす毎日でした。

5月に余命宣告され、訪問介護の緩和ケア体制に入った10月です。
3日に一度の劇薬麻酔パッチを張り替えるだけの生活に入ると、一人での外出は出来なくなり、盲腸がん の為、下痢続くように痩せて行きました。
そして、お正月を自分のアパートで、姉が造ってきた「おせち」一人で食べていたそうです。
4人兄弟のうち、姉と兄は故郷に暮らし、私は首都圏です。
最後のお正月を一人で過ごすのを、見過ごすのか・・・と云うご批判もあるでしょうが、他の兄弟にも 家庭があり、守る物もあるのです。

お正月が開けて、ドクターからホスピスへの入院を勧められました。
盲腸がんの為、消化器系統が機能しなくなり、下痢・嘔吐が続き亡くなる1週間前にお見舞いに行った時は 意識はなく、昏睡状態でした。
ホスピスに入院して、3週間で亡くなりました。
カトリック系のホスピスで、病院内のチャペルでは、空いている看護婦さん・職員が参列し、賛美歌に つつまれ、兄は旅だった行きました。

今回の樹木希林さん、テレ東のアメリカ人男性(まだ亡くなってはいませんが、)そして兄の死を見つめて もしかしたら、末期がんで逝くのが、自分の終活、廻りの家族にとって一番幸せな逝き方かもしれない と思っています 。


09/18 カミサンの「持病」の治療の緩和・リハビリの為に

海外旅行は退職10年後の65才で卒業しました。
55才で退職したのは、気力・体力・好奇心が衰える前に、二人の念願の夢だった海外ロングステイを実行する 為でした。
退職して10年間、バリ島・バンコク・ハワイの3か所「模擬ロングステイごっこ」で2週間ほどの 暮らすようにステイする生活を年に三回、繰り返し、その他にはアジア・南米の世界遺産や秘境を二人だけの個人旅行の スタイルで旅してきて、高齢者と呼ばれる年齢65歳を境に、卒業しました。
そして、国内旅行に切り替え、毎月二泊三日の一都市滞在型の旅をするようになりました。

廻りからは、「よく毎月、国内とは云え旅行に出かけられますね」と云われます。
私は、「妻が病気なのです。」と答えると、「それはお気の毒、なんの病気なの」と問われ「カミサンはつまんない病なんです」 と答えています。
「なーんだ、鎌倉の有閑マダムの贅沢な病気ですね」と常に云われます。
確かに、それはそうなんですが・・・・

私たち夫婦には、子供がおりません。
同じような世代のご夫婦は、お子さんがいたり、お孫さんがいて日々の生活の何らかのアクセント・刺激に なってるでしようが結婚して40年以上経つ夫婦は、ずっと二人きりなんです。
現役時代はお互いに専門的な仕事もあり、友人関係もあり、二人だけの時間は、お互いの休日が重なる週に一度程度 でしたが、退職した後は、365日24時間いつも一緒ですから、カミサンの 「つまんない」「暇だ」は自然に増えていき ストレスが貯まっていくのは仕方ないがないのです。
それなら、お友達と一緒に旅行に行ったら?と問うと。
友達とは云え、女同志の泊りがけの旅行は大変なのよ。
気心知って、ワガママが許される、貴方との旅行がベスト

月に一度、2泊3日の国内旅行をしています。
常に、一か月以上先の旅先を決めています。
そうすることにより、一か月単位の目標・目的・予定がたち、カミサンのストレスはいくらかは減少します。
カミサンの旅行の目的の大きな一つは、旅自体の非日常の体験や環境の変化もそうなんですが、お友達へのお土産選び が大きなウェートを占めています。

旅先のお土産物屋さんでシニア女性が、何種類ものお土産を幾つも選んで、小分け用の袋を貰っているのを見かけ 、この人達は不思議なな人達と思っていましたが、今のカミサンは、その不思議な人たちなんです。
彼女のお友達は、我が家のカミサン以上に暇を持て余しているようで、月に何回も旅行し、その都度お土産を持って くるので、そのお返しに毎月旅行しているようなものなんです。

それにしても・・・と人は云います。
国内旅行とは云えよく、そんな毎月、二泊三日の旅が出来るね。お金持ちなんだ。
いいえ、我が家は55才、52才で退職していますから、日本のサラリーマンの平均的年金よりちょっと少ないくらいの家計で 決してお金持ちではありません。
ただ、子供のいない夫婦二人の家庭で、慎ましい生活をしているだけです。
退職シニア家計の金食い虫NO,1の車も持っていませんし、携帯電話はガラケーで通信費は一般家庭の半分以下です。
電気代もガス代も水道代も一般家庭の半分で済んでいます。

それにしても・・・と云う質問の答えは。
55才・52才の早期退職で、年金満額受給まで10年無収入で、自己資金食いつぶしの慎ましい生活に慣れているのと、死ぬまでに 二人の全財産を使ってしまおうと考えているだけです。
普段の一般的な生活費の他に 医療費・観光葬祭費・耐久消費財購入費・そして旅行費の合計を別予算として年間幾らと組んでいます。
医療費や冠婚葬祭費が嵩めば当然ながら旅行費は減額され、行く回数、場所も変ってきます。
何よりも、年齢がいけばいくほど、気力・体力・好奇心は落ちていくものです。
そして、旅行自体も皆さんのような豪華なツァーではなく、京都に行く時は「こだま」にしてますし、普通旅先では、その地 名物お料理を食べるのが当たり前でしょうが、私たちは普通の食事ですませることが多いです。
私たちの2泊3日の旅行は、自分たちの退職後の生活にメリハリをつけ、カミサンの「つまんない病」の転地療法のひとつなんです。


09/10 散々な旅、阪急格安避暑ツァー、八ヶ岳リゾートホテル二泊三日 二人で54,000円

定年後、現役時代は振り向きもしなかった、「安かろう・悪かろう」のイメージがあった 阪急のフリーツアーに参加するようになりました。
初めて参加したのは、14年前、信州「赤倉高原2泊3日新幹線・送迎・4食付き一人二万円」でした。
現役時代の海外旅行は、ほとんどは世界遺産を中心として個人手配旅行でした。
海外の旅先で、日本からの団体パックを横から見ていて、なんて駆け足のだだ見ただけの、なんと勿体ない旅をするの だろう、特に阪急のツァーはと、頭から無視していました。
確かに団体パック安い・・・かも知れませんが、世界遺産の旅を知り尽くした私たちにとって、 要所を抑えれば、日本各社の団体ツァーはそんなに安いとも思えない内容と値段でした。

海外旅行を5年前に卒業し、毎月2泊以上の国内旅行に切り替えるようになると、大手旅行会社の値段に驚愕し あるレベルでは、妥協して参加するようになりました。
今回の八ヶ岳リゾートホテルの場合、新宿からスーパーあずさ小淵沢までの往復とホテル間の送迎、夕・朝食 4回と、清里周遊ピクニックバス1日券(千円相当)と、清里内の観光施設・乗り物で使えるクーポン(1,500円分)が付いていました。
確かに安い、個人手配では、交通費だけで一人往復11,400円かかります。
単純に計算するとツイン二人で一部屋食事付で2泊、31,200円です。
プラス一人2,500分の清里クーポンがつくのですから、個人手配の半分近い驚愕の値段なのです。

しかし、理由があります。
行きの時間帯は、阪急の云う「ゆったり・ゆとり出発」の新宿12:00発、 帰りは「らくらく早めのお帰り」の新宿着14:45分です。 この行き帰りの時間帯はJRの特急指定席の仕入れ値段が相当に安いのでしょう。
つまり首都圏発山梨県への旅の三日間の旅程のうち、一日目と三日目は完全移動日なのです。
東京から遠い場所なら納得しますが、都内から二時間程度の場所では、遅すぎ・早すぎで実質観光に当たられる 日は中日一日だけなのです。

このような阪急格安ツァーのホテルの場所は、一般公共交通機関が利用できない山里や、周辺観光への足の便が 悪い場所がほとんどです。 そして、大手旅行社の無謀とも思われるオファーと集客力を受け入れられるのは、 ある一定時期、つまり閑散期に、このような値段と人数受け入れる条件が整ってる大型ホテル・ 旅館がほとんどです。
一般的にスキーリゾートホテルです。或いは宿から周辺観光地への足の便の悪い温泉街
阪急の格安ツァーで使われるのは、冬季・夏季以外の「白馬」・「赤倉」・「水上」などのスキーリゾートや 「草津」・「下田」の大型ホテルの季節はずれの時期が多いのです。

では、そんな条件のツァーと解り切っているのに、何で参加するのか?
今回の場合、このツァー募集していたのは、7月半ばの関東首都圏が猛暑が続いていた時期でした。
暑さにへヘキヘキしていた頃、TV番組ではバブル時期に、大勢の観光客を集めた「清里」が衰退し、閑古鳥が鳴いて するのを、町をあげて再生に取り組み、観光客が戻りつつあると云う内容でした。
一番の目玉は、最近開業した「清里テラス」の人気でした。
標高1,900mの山の上に、若者向けの特に女性が喜びそうな、オープンカフェが開業した報じていました。
あのバブルの時期、確かに清里はすごい人気でした。
勤めていた会社も、バブルに浮かれ、八ヶ岳西武系リゾート内に社有の別荘を建て、私も何度か利用しました。
あの頃の清里をもう一度、懐かしく思い出し、この程度の値段なら行ってみようと思い立ってでかけた訳です。


首都圏の猛暑を抜け出して標高1200mの八ヶ岳リゾートホテルでの旅は首都圏の学校の夏休みのが終わった 翌週9月の第一週の日・月・火の3日間です。
出発当日、あの猛暑は落ち着いており、2時間の列車の旅に備えて サマーセーターを持ち込んでの出発となりました。


■ 一日目 新宿から小淵沢

新宿の「スーパーあずさ」の指定席は、私たちよりもかなり上の年代、70代半ばのご夫婦が20組、40人程度でした。
この日、大型台風21号が接近しており、曇り空でした。
「スーパーあずさ」は二時間弱で小淵沢に到着し、駅前には宿泊先の「ダイワ・ロイヤル八ヶ岳ホテル」の送迎バスが 待っており、下道を走る事20分でホテルに到着、チェックインしました。
通された部屋は、4階、35平米ほどの広めのツインルームですが、窓の外は三階の屋上です。
カミサンは、団体パックにも関わらず、何時ものようにフロントに行き、部屋のチェンジを申し入れました。
普段、個人旅行に徹しているので、ホテルの部屋の交換は当たり前に要求していますが、通常団体パックの場合は無理 なのですが、二泊するのにこのようなロケーションでは・・・と食い下がり、同じ価格設定でももう少しマシな部屋に 今回もチェンジしてもらいました。
しかし、外は小雨、15時だと云うのに外にも出られず、露天風呂に入ってこの日は終わりです。

■ 二日目 清里ピクニックパス

今回のパックには、清里再生プロジェクトの一つ、清里の主な観光施設を3つのルートで廻る「清里ピクニックバス」の 1日乗車券(1,000円)と、1,500円分の各施設で使えるクーポンがついているので、事前に廻るルートを決めておきました。
しかし、このバスは3ルートあるのに、運航するバスは平日は一台のみです。
1か所で下車すると再度そのバス停からの乗車 は2時間後と云う、非常に効率の悪いバスなのです。
先ず最初は、清里再生プロジェクトの目玉「清里テラス」です。
冬場のスキー場「サンメドウス清里」がスキーシーズン以外の集客用にペアリフトで1,900mの位置に、見晴らしの良い オープンカフェを開業し、インスタ映えするおしゃれなテラス・椅子と八ヶ岳の山々と富士山の展望を売りにすると 女性観光客に大うけして、今では清里一番の人気スポットになっています。
しかし、行く前から判っていましたが、この日は曇り、全て標高1,900mの霧の中でした。

2時間ここで過ごし次は向かったのは、清里駅周辺の歩ける範囲の観光名所です。 清里駅は35年前のバブルの頃、若い女性で溢れかえっており、駅周辺のおしゃれなカフェ・レストランは行列が出来ていました。
駅から少し行ったところににある、小海線の踏切はローカル列車を撮影する人で溢れ、当時はJR・警察がでていたこともありました。
何時しか、バブルは消え、清里は誰も来なくなったのですが、近年の地元清里再生プロジェクトが功を奏し、少しづつ観光客が 戻りつつあります。
曇り空だった空も、少しづづ青空が広がり、私たちはピクニックバスで清里から2つ目停留所、「萌木の村」にランチにいきました。
「萌木の村」はバブル当時からあったようですが、初めて訪れました。
レストラン「ロック」とオルゴール博物館がメイン施設のようですが、色々なお店・テナントが点在し、村内のお庭がとても 綺麗で、時間つぶしにはなりました。
ここで昼食の予定でしたが、核テナントの有名レストラン「ロツク」2時間待ちの大行列でパス、簡単に済ませ、 次の目的地は県営八ヶ岳牧場併設マキバ公園です。
広大な八ヶ岳の丘陵に広がる牧場公園で、飼育されてる動物とのふれあいもあるようで、動画の素材にぴったりと出かけ たのですが、生憎の月曜閉園日で、そとから眺めて本日の最終目的地、ピクニックバスで一駅先の「八ヶ岳倶楽部」へ

八ヶ岳倶楽部へ
「八ヶ岳倶楽部」は俳優の柳生博さんが別荘として購入した土地を、一般の方に八ヶ岳の自然を楽しんでもらおうと、開発・ 公開している、レストランとショップの複合施設です。 TV番組「爆報ザフライデー」で度々取り上げられ、叔母さま方に人気となっている場所です。
ホテルへ帰るルート上にあり、マキバ公園が閉園で時間が余ったので寄ってみました。 若いスタッフは皆さん丁寧な応対で、オーナーの柳生氏をパパさんと呼んでいました。
八ヶ岳倶楽部を撮影した2019の美しいカレンダーがあったので、購入すると、今日はオーナーがいますので、サインしましょうか と声をかけていただき、ありがたくカレンダーにサインしてもらいました。
TV・映画の登場する芸能人のサインは初めてです。
ゆっくりとお茶していましたら、柳生さんがご挨拶にまいられました。
このオープン喫茶からは富士山が綺麗に見えますよ、とのお話でしばらく眺めていると、富士山頂の雲がとれ、一瞬の富士がみえました。
二日目、最終バスといっても16:00ですが・・ホテルに戻り、再び露天風呂三昧で終わりです。

■ 三日目 小淵沢から新宿へ

3日目、帰りのスーパーあずさは小淵沢発12:56分ですから、半日は動けます。
予定では、最寄のJR駅「甲斐大泉」までホテルから送ってもらい、小海線で野辺山まで行き、歩いて「JR最高地点」碑まで行き、再び 野辺山から直接小淵沢にもどり、スーパーあずさで新宿に戻る計画でしたが、台風21号の北側の縁の雨雲なのか、朝から結構な雨で ホテルから一歩も動けず、ホテル発小淵沢行き送迎バスがでる12時まで缶詰状態で、この日も朝から露天風呂三昧です。
結局、2泊3日のうち、観光で動けたのは、2日目だけ、後はホテルの露天風呂で過ごした、八ヶ岳の避暑の3日間でした。
自宅最寄駅に戻ったのは、16時、確かに阪急のシニア旅、早めのお帰りでした。
自宅周辺は、台風特有のなま暖かい、湿気を十分に含んだ風が、断続的に吹いていました。
帰宅が間に合ってよかった。


09/02 実習生のと云うな労働者、日本人も実習生と呼ばれていた

テレ東の番組「ガイアの夜明け」で、日本で働く海外実習生の労働条件と問題について、やっていました。
そして、朝日新聞は、最近、実習生制度について特集しています。
タイミングが合った、と云うか、温めていた記事の出しどころを見計らっていたというか、解りませんが、現実にこの問題は 日本の将来を考える上で、無視できない問題になるでしよう。
団塊シニア・これから定年を迎える世代の投稿・交流掲示板でも度々話題になっています。

そんなに遠い昔でもなく、日本人も実習生として海外へでていました。
海外実習生と云う言葉から、貧しい国から豊かな国日本への出稼ぎ労働者をイメージしますが、ほんの50年前、昭和30年代後半から 40年代初頭、日本の高度成長が始まりだした頃、日本の農家の青年の多くが、海外へ出稼ぎにでていました。
アメリカへは派米実習生と呼ばれていました。
アメリカの農業を学ぶ為、と云う大看板はありましたが、実際の作業はメキシコからの労働者に交じっての苺摘み取りの作業 などでした。
このあたり話は、石川好の小説「ストロベリーロード」に書かれています。
この当時(昭和40年)アメリカの労働者の最低賃金は時給1ドル、当時の為替レート360円です。
1日8時間、週6日働き、48ドル、月200ドルが最低ラインでした。
働く農場の多くは、日系人でしたので、彼ら実習生の多くはメキシコ人労働者の監督的な立場にあり、時間外も働き 月300~400ドル程度稼いでいたそうです。
日本の賃金はと云うと、大卒初任給は23,000円、為替レートから云うと64ドルです。
元派米実習生の知り合いの一人は、雪深い東北の農家の次男で、一生懸命に勉強して、日本の外務省・農林省の試験に合格して 2年間アメリカに渡り、数千ドルを持ち帰り、親戚一同を温泉旅館に招待したそうです。

この話は、今の日本と全く同じです。
ベトナムやミャンマーの優秀な高学歴の青年が日本に、実習生という名の労働者として来日、働いている現状。
名目は、技術研修ですが、単純労働者です。
当時の日本と違う点は、送り出し側の国で1万ドル近い、経費と云う名目の搾取が行われ、全て借金で来日していることに由来 することで、これらの青年が、受け入れ側日本の技術継承に名を借りた、低賃金の元働かされているのです。

当時の派米青年のその後は
1968年、私は南米アルゼンチンの日系企業に就職する為にアルゼンチンにいました。
大学紛争当時の事、まだ海外へ出ることが普通ではなかつた頃の話。
当時の南米では豊かな部類のアルゼンチンにも、実習生という名の移住青年が多くいました。
その半数ほどは、過去にアメリカに行っていた、元派米青年の方々でした。
一度海外の生活、農業を体験すると、狭い、雪の降る東北の農家の生活に耐えれなくなり、海外を目指していたのです。
この当時、多くの日本の若者はブラジルをめざしましたが、全体の一割以下の青年は、アルゼンチンを選んでいます。 理由は、実習生としての勤務地が大都市ブエノスアイレス近郊の、花卉栽培、鉢物栽培の大型温室内作業故に本格的な 農作業経験がなくても就業出来たからです。

送り出し機関は当時の「海外移住事業団」です。
日本国政府は、1973年まで積極的に日本人の海外移住を推奨してきていたのです。
これまでの「海外移住事業団」の姿勢については、掲示板投稿者のRick Noguchiさん掲示板にかかれています。
当時の送り出し先の、ドミニカ、パラグアイ、アルゼンチンのアンデス移住地にしろ、現地査察はしていませんでした。
送り出し先の国政府と癒着した不動産ブローカーの云うままの土地(塩の吹き出す畑)を言い値で購入し、日本からの 移住者を送り込んでいたのです。
もう、高度成長期に差しかかっていた日本経済なのに、日本外務省は役所として利権確保の為に多額の税金を 注ぎこんで、海外移住事業を推進して行ったのです。
日本に住む日本国民は海外でこのような、棄民政策を外務省が行っていることは誰もしらなかったのです。

現在組織はそのままで「海外移住事業団」はJICAと名前は変えました。
現在「国際協力機構」JICAと名前を変えた外務省の外郭団体は、主に日本版平和部隊「青年海外協力隊」事業と、 開発途上国へのODA事業の窓口となっています。
ODAは国民の税金をつぎ込んでいる事業なのですが、評判は良くありません。
日本以外の先進他国は政府は出資するが直接事業をせずに、民間NGOなどに任せているのがほとんどなのですが、 日本では細かい金の使い道までJICAが権限を持っています。
私たちが発展途上国で良く見かける、日本のコンサル会社とJICA・現地政府の相互利害関係 が続くのは、外務省の官僚の天下り先確保の為にあると云われています。

青年海外協力隊の制度はとっくに破綻しています。
本来の目的は、日本の若者による発展途上国への技術支援でした。
年月が経過して、相手国からもっと高度の知識・技術の支援を要請されたJAICAは、それをシニア海外ボランティア として継続して一定評価を得ています。
しかし、現在の青年海外協力隊は、何の技術も知識もない若者を、二年間世界の僻地に送り込み、自分で この地域の発展に何が出来るか、考えなさい。と云う現地の要望を無視した、OJT(現地研修)的方向に移行 しており、昔に比べると青年海外協力隊の質はどんどんと低下しています。
日本政府は、日本で何をして良いのか解らない若者を、旅費・滞在費・お給料を与え、後は現地のコミユニテイ にお世話になりなさい。と云うのが実態で、企業も昔は、青年海外協力隊経験者を積極的に採用していましたが、 二年間、何の実績も残してこない若者を雇用するところは少なくなりました。

このように問題が多い、外向けのODA・青年海外協力隊制度と、内向けの実習生制度が、成り立つのか?
日本の省庁のなかで、退職後の天下り先が一番少ないのが、外務省と云われているのです。
外向きのODAと、内向きの実習生制度に関わる諸団体がないと困るようです。

疑問の1
発展途上にある、東南アジアの青年が日本を目指す理由は解ります。
でも番組に度々登場する、中国の人達は何なんでしょう。
中国は世界第二の経済大国のはずなのですが。
何故か、地方の農家や都会で3Kの単純労働者として働いています。
一方、中国からは一時の爆買い観光団ではなく、個人旅行者として大勢の観光客が日本に押し寄せてきています。
同じ中国国籍なのに上海と内陸地では全く違う、中国があると思わねばなりません。
そのような中国から単純労働者を受け入れなくてはならないのでしょうか?
上海や北京に住む都市労働者は、自国民が日本でそのような条件で働いていることをご存じなのでしょうか?

疑問の2
北海道酪農地帯には、内地から来た若者が、農場で働いています。
彼らも、実習生と呼ばれています。
これは、経済的な問題ではなく、広い大地の北海道に、自分の人生の何かを求めてきた、自分居場所を探しに来た若者の 一時的な居場所、食い扶持探しなのでしよう。
このような、食事・居場所を提供する農作業には、最低賃金や、労働基準が当て嵌まらなくても、内地から来た青年は誰一人 として、不満を訴えないと聞いていますが、このことが、海外から実習生として来た若者にも当てはめようとする一部の 農業法人が存在するとの報道もありました。

技能実習生と云う美辞麗句を止めて、正式に外国人労働者の受け入れを制度化する時期に来ているようです。


08/27 退職後の旅行、行先とタイミング

退職後にしたいこと事の一番に誰もがあげるのが、旅行です。特に海外旅行
会社員時代、長く休めるのは、お正月・ゴールデンウイーク・お盆休みです。しかし、責任のある地位にいたり、 休暇が連続して取れなかったり、航空券・ホテル・パックツァーは一週間違っただけで、倍近い値段もしたりして、 退職したら、時間はたっぷりあるし、退職直後の一年間くらい、好きな所に、好きなだけ、好きな時に行けると ほとんどの人はそう考えます。

しかし、現実は・・・
団体主催旅行いわゆるパックツァーは皆が休める時期は人数が集まり催行されるのですが、退職者が狙う、一番安い 料金設定の時期は、最低催行人数に達せず、中止になるケースが多いのが現実です。
退職したら何時で行ける・・と思うのは退職直後の数年です。
退職後の年金収入しかない生活が続く数年後になると、退職直後の一人数十万の海外旅行がとても大金に感じられて きます。
勿論、ゆとりある老後設計している人には織り込み済みですから、問題はないのですが・・・
そして、お金の問題の次に来るのが、健康・体力問題です。
自分の頭の中には、退職直後の体力とか好奇心がそのまま継続していますが、齢をとるにつれて、一般の人でしたら 100%減衰していきます。その代表例が現在の私なのですが。

■ 今、行きたいと思う国、場所は多少無理しても行って置かないと後悔します。

先週のテレ東の「未来世紀ジパング」はアジア最後のフロンティアと云われるミャンマーでした。
定年後のロングステイを考え始めた時から、候補地の条件的な問題は有りますが、仏教世界遺産の 国ミャンマーで のんびり・グータラに過せたら良いなー、と考えていました。
東南アジアの仏教国で ありながら、インドと国境を接しているため微かに南アジアの香りを残す、魅力的な国。
そのミャンマー観光がノービザになるって!! 未来世紀ジパングでの報道でした。

初めて、ミャンマーを訪れたのは1995年、ミャンマーがまだ軍事政権で、入国時に悪名高い強制両替があり、 中国やキューバと同じ外国人用の二重貨幣制度が残っていた、文字どおり、半鎖国状態の秘境の国でした。
当然ながらビザは必要ですし、観光ビザの発給条件も独特なものがありました。
それは2008年に起きた日本人ジャーナリスト殺害事件に端を発しています。
この方は、日本のミャンマー大使館 発給の観光ビザで入国し取材活動をしました。
この事件以降、職業証明書つまりジャーナリトではない、と云う証明や現地保証人の欄がうるさくなっています。
普通に日本発の団体観光旅行でしたら、主催する代理店が全て一緒にビザ申請をしてくれますから問題 ないのですが、退職リタイヤして、暇は十分にあるが金がない私たちは、自分手配のチケットで入国し ミャンマー内は、現地の旅行社を使って節約しているのですから、ビザ申請も当然ながら自分でしてきました。
そのミャンマーが日本人に対して、観光ビザを免除・・なんて
変れば変わるものです。

私たちは、昔の日本が鎖国から開国し、江戸から明治に移っていった時代・世相を見つめていた 西洋人と同じように、独裁軍事政権下・アウンサースー・チーさんの自宅軟禁時代・改革開放の始まりを 20年近くづっと見続けて来ています。
でも、もうミャンマーには行きません。
理由の一つは、昔あれだけ親切・丁寧だった現地旅行会社のほとんどは、観光関連の営業をやめ、進出して くる外資のコンサルタントに変身してしまいました。
そして、ホテルの値段の高騰、10年前20ドルだった国営ホテルは200ドルです。
観光旅行者よりも、ヤンゴンにやってくる外資の社員を相手にしていたほうが、効率良いのです。
ヤンゴンでは外食に苦労していましたが、今や和食レストランや、ファストフードがどんどんでき来ている そうです。
そしてTV画面でびっくりしたのが、工場労働者の賃金の高さです。
稀なケースだと思うのですが、日系企業の現地縫製トレーナーの給与が700ドルと云うのです。
番組では日本のHISが現地に旅行代理店を開設していました。
もう、秘境でもなんでもありません。
ミャンマーの国民が豊かになっていくのは、喜ばしいことですが、古稀を迎えた私たち夫婦がこの国を 旅することはもうないでしょう。

これまで何回か行ったミャンマー旅行については、本サイトの仏教世界遺産の国 わが愛するミャンマーに 詳しく書いています。但し ミヤンマーの旅は2012年に行ったガイドブックにないミャンマーの旅 カレン州・パアンとモン州・モーラミャインが最後ですので、改革開放が進む2018 年現在とは、航空券・ホテル・レストラン情報もかなり違っていますのでご注意下さい。

■ 今、行っておくべき国はラオスです

経済・人材のグローバリゼーションが進む世界で、もはや秘境と呼ばれる国はほとんど見当たりません。
昔は、ブータンが「ヒマラヤの奇跡・秘境」「幸福度世界一の小国」と呼ばれていましたが、 国王制の廃止以来、もうその面影はありません。押し寄せるグローバル化の波、世界中を駆け巡る ネット情報、インド・中国と云うアジアの大国の挟まれた小国は、否が応にも多様性文化、資本を受け入れないと やっていけないのです。
ブータンについては、本サイトの定年後は、いつか行きたい世界遺産 ブータン をご覧ください。


今、行っておくべき国は「ラオス人民民主共和国」
数年前、ワシントンポスト紙による今行くべき世界の観光地にも選ばれています。
さらに、ワンダーレスト・トラベル・マガジン誌では古都ルアンパバーンの街を2006~2008年まで3年連続で世界中で のトップ人気の街と紹介しています。
ラオスはインドシナ半島の内陸国で、アジア周辺国からの直行便がほとんどない航空事情と、社会主義国と云う 政治情勢で、インドシナ半島のなかでは、もっとも観光客の少ない国です。
それ故に、仏教徒の日本人が求めるものが沢山残っています。
早く行かないとミャンマーやブータンのように、観光業者やアメリカ資本が溢れた何処にでもあるような 観光地となってしまうでしょう。
もしか、するともうなっているかも知れません。
私たちが最後にラオスを訪れたのは2009年です。それ以降行っていません。理由は・・・
首都ビエンチャンに中国系のコンビニが出来たからです。
ビエンチャンの市民の財布とは全く関係ない値段の品々が冷房の効いた店内に溢れてきました。これを見て もう、ラオス詣出は止めようと決めました。
ラオスについては、本サイトの アジアで一番敬虔な仏教国 ラオスの旅に書いています。

これまで同じような経験をしてきています。
鄧小平の改革・開放が始まる前の中国へは、シルクロードを中心に何度も行きました。 そして、或る光景を目にしてから、もう中国を卒業しようと思いました。
1993年でした。中国が市場経済政策を取り入れた一年後。まだ兌換紙幣時代です。敦煌からの帰りに 西安に泊まりました。西安は昔の唐の都長安です。昔の長安のシンボル大雁塔が見渡せる大通りに 何と、「赤い灯・青い灯」のネオンの大看板が出現していたのです。
もう、中国は卒業と、あれ以来一度も行ってませんし、興味も有りません。 行くべきタイミングは各々の事情がありますが、今、行きたい時が、ベストタイミングでしよう。


08/21 アンケート調査、「おじさん」だと思う年齢について質問の答えは

Biglobeが10代から50代の男女1,500人に質問しました。
「おじさん」とおもうのは、45.7歳
「おばさん」とおもうのは、45.4歳
 ふーんそうなんだ。

「自分や他人を見て、おじさんっぽい、おばさんっぽいと感じること」の質問では
1,「肌の老化」が71%
2,「体形が崩れている」(57.9%)、
3,「白髪がある」(42.1%)となった。
回答者を10代に限ると、
「知識が古い」(36%)が他の年代と比べて10ポイント以上、上回っている。

また30代以上に「「おじさん」「おばさん」だと思われないよう取り組んでいること」を質問すると、
1,「外見を整える」が49.3%
2,「定期的に運動をする」(22.8%)
3,「白髪染めをする」(22.3%)と続く。

想像していた大人とのギャップは
「小さい頃に思っていた、現在のあなたの年齢と現在のあなたご自身を比較してどのように感じるか」を質問したところ、 1,「思っていたよりもお金がない」が37.8%
2,「思っていたよりも未熟だ」(35.7%)、
3,「思っていたよりも体力がない」(28.1%)
4,「思っていたより若い」(27.1%)と続いた。

では、私たち団塊世代が気になる「おじいさん」・「おばあさん」と呼ばれる年齢は、と云う調査を見てみる
「おじいさん」「おばあさん」は何歳から呼ぶ?
1, 70才以上 35%
2, 60才以上 24%
3, 65才以上 15%
4, 75才以上  8%
5, 80才以上  8%
6, 40才以上  4%
7, 50才以上  4%
8, 55才以上  1%
9, 45才以上  1%
 以上の結果です。

この「おじいさん」「おばあさん」と呼ぶ対象者を特定していないので解りませんが、孫のいる家族でしたら 子供・孫はもっと早い段階から呼んでいるかも知れません。が、一般的に見知らぬ他人を呼ぶときと解釈 しています。
今年古稀70才になる私は、街中、電車内で「おじいさん」と呼ばれたことも、座席を譲ってもらつた事も一度もないのですが 想像するに、そう呼ばれて座席を譲られたら相当ショックでしょうね。


08/14 個人年金の入金が確認できない? ダブルエラー?

大きな事故は、ほんの小さなミスが偶然に起こった時とか、思い込みミスによるものが多いと 云われています。
群馬県のヘリコプター事故の原因もそのうち解明されるかもしれませんが 意外と小さなミスや思い込みがあったのかも知れません。

8月は個人年金が2つ入って来る月になっています。
8月1日に旧千代田生命の分と、8月8日には住友生命の分、各々100万程度。
8月10日に入金用みずほの口座をネットで確認したところ、何れも入金が確認できませんでした。
あれ?、確か千代田の分は、10年確定で今年が最後だったはず。
それにしても、毎年7月には、支払い通知書が届くのに今年は、届かない。
自宅共同住宅のメールボックスの見忘れかな。
それも、この千代田の契約した時の保険のオバサンが昨年亡くなっているので、手続きミスかな と思いました。
住友生命の分は、確かに支払い通知書が届いおり、8月8日に入金しますとありました。
でも、ネット口座ではこの2つが確認出来ません。

そうだ!みずほはこの3連休システム改修をやると云っていた。
数年前に、みずほはシステム改修で大エラーをおこして、問題になっていたっけ。
また何かやらかしたのかな、と考えてしまいました。
ともかく、全て、この連休明けの月曜日に、ネットではなく実店舗で通帳記入してみよう。
そして、旧千代田(現ジブラルタル生命・・その前は名前は何だったっけあまりにも変わりすぎて解らない) に連絡してみよう。私の勘違いなのか、保険屋さんミスなのか? 住友生命の分は、月曜日にカミサンの個人年金口座にも同様の入金があるハズなので、先ずこれを 確認すれば解る事です。

月曜日の朝9時、先ずは貸金庫を借りている銀行へ行き、関係する書類・通帳を持ち出して、みずほの 口座をATMで通帳記入してみました。
ネットと同じで二つの振り込みはありませんでした。
それでは、三菱に行って、カミサンの振込口座の通帳記入すると、8月8日に入金されています。
なんで、みずほの私の口座には入金されていないのか、そして千代田の分も。
これは、みずほのシステム改修のチョンボと、確信してしまいました。
さっそく、みずほの店舗行内の正社員の方にお話ししました。
窓口案内のオジサン・オバサンでは話にならないからです。

丁寧に話を聞いてくれ、さっそく調べてみましょう。
保険屋さんからの振り込み通知書と、通帳本体をお借り出来ますか、というので渡したところ、
「もしかしてみずほに 同一名義で他の通帳を持っていませんか? この支払通知書の口座番号と、通帳の番号が違っています。」
と云うのです。
確かに、!!一文字違っています。
これで解りました。
カミサンの口座は入金されたが、私のみずほに入金がない訳が。
引き続き、旧千代田の入金確認できない件は? 支払い通知書がないのは、もしかしたら10年確定の個人年金の支払いスパンの勘違いかもしれない 確認しようにも、手元に証券のコピーがないし、今ここで電話しようにも電話番号が解らない。
みずほの社員は、「では10年前、2008年からの通帳の入金確認をしてみましょう。 お客様の10年確定と、証書の第1回支払日を調べれば解るでしょう」と、調べてくれました。

御免なさい。私の勘違い、私の老後資金計画表エクセルの間違いでした。
10年確定個人年金は、昨年の支払いが最後でした。
ここで学んだこと、保険証書のコピーをとっておくこと。
生命保険会社の年金請求の時、原本が必要で、送ってしまい手元になかったのが、勘違いの原因でした依頼。
住友の場合も、解約&振込依頼書のコピーをとっておくべきだったのです。
みずほさん、システムエラーを疑って申し訳ございませんでした。

全て納得して帰宅すると、住友生命から
「該当する口座がありませんでした。 再度、正確な口座番号を記入して送り返して下さい。」
と速達の印をおされて返信用の封筒が入っていました。
小さなミス、思い違いが大きな事故につながる・・・この年になって再度学びました。


08/05 「カメラをとめるな」低予算のインディペンデント映画大ヒットの兆候

8月3日の昼のワイドショーでゲストコメンテーター立川志らくが、この映画を絶賛すると、MCの女子アナも、私も見ました。と云う。
そして、夕方の別の局のニュース番組のなかでも、昨年11月公開された時、たったの二劇場だけだったのが、今年に入って10劇場に 広がり、8月から全国100の劇場で上映される、と時事ニュース扱いです。

何だ、その映画は、「カメラをとめるな」・・・?

志らくは見る前はただのオカルト・ゾンビ映画と思ってみたが、その前日に見た何十億円かけて制作された「ジュラシックパーク」の何十倍 も面白く、良くできた作品だと云うのです。
映画好きの私は、早速、ネットで検索し、自宅近くの上映館を探しました。
全国展開と云うのですが、神奈川県で翌日8月4日に上映されているのは、川崎のシネチッタだけで、他の大手は翌週11日まで待たない と上映されません。
そして、一番近く行きつけの109シネマ湘南は、この映画の予定はなさそうなので、シネチッタ翌朝一番のチケツトを 予約しようと、サイトに入ったのですが、なかなかサイトが反応しません。
私もプログラマーですから、原因は推測されます。
急激に多くのアクセスがあり、予約CGIプログラムがフリーズしているようです。
何度も試みましたかが、ダメです。
翌日、この映画に興味をいだく若者がまだ寝床にいる早朝にアクセスすると、予約できました。
シニア割引1,100円、自宅から川崎までの電車賃がいつもよりかかるけど、今ホットな映画は見ておかないと。

20数年ぶりの川崎は様変わりしていました。

私たちの世代にとっての川崎と云えば、先ずは労働者の町、男性単身者人口が一番多い政令都市と云うイメージ、そして ギャンブル・風俗の町でした。
今回行く「シネチッタ」の前身は、超過激で有名なストリップ劇場だつたのです。
そして、川崎競馬・川崎競輪、京急の赤い電車の走る街という、マイナーなイメージが強い街だったのですが・・・・ シネチッタは以前の場所は大型パチンコ店に変り、直ぐ前に大型シネコンと生まれ変わっていました。
上映シアター11は、シネチッタ12スクリーンのうち3番目の収容人員407人で、劇場側の期待が大きいのでしょう。
朝のネツトの予約時でも、70%程度の入り、午後の部売り切れ状態でした。
館内に入ってまず感じたのが、ここ数か月毎月見に行っていた映画の観客層が全く違っていることです。
直近の映画といえば、「終わった人」「家族はつらいよ」「万引き家族」「焼肉ドラゴン」是枝裕和であり、山田洋二などの巨匠 と呼ばれる人たちの作品、観客の多くは私と同じ世代、圧倒的に多くのシニアのおばさま方でした。
しかし、この映画「カメラをとめるな」は真逆で、圧倒的に若い世代が占めています。
私と同じシニア割引世代は、ほとんど見えず、時間的かも知れませんが、ファミリー層も見当たりません。

若者向けの実験映画なのか

この映画は、ハリウッドの三流ゾンビ映画では有りません。
この映画は、自己満足の芸術作品映画ではありません。
この映画は、実験的、前衛映画でもありません。
この映画は、一流のエンターテーメント、娯楽大作品です。
ネット上でも、エンディングネタばらしは厳禁と云ってますので詳しくは書きません。
現在のネット社会では誰でもが、自作動画を簡単に世に送り出すことが出来る世の中です。
今まで、劇場に足を運んで有料でみていますが、世の中web・netの有料チャンネルでみる時代、ネツトでしか見れない 作品がどんどんと出ています。
これから、映像クリエータを目指す若者、映画作りに興味のある若者、若者でなくても「旅の行ってきたビデオ」だけでは なく、作品を造りたいと思っている、アマチュアビデオ愛好家には必見の作品でしよう。
見終わって、つくづく脚本の大切さが解りました。
監督・脚本・編集の上田慎一郎に脱帽。


07/30 阪急交通社が仕掛ける年金シニア向け格安・個人旅行パックの裏側事情

現役時代、世界の秘境をめざしていた私たち夫婦の認識では、阪急の団体旅行パックは、「安かろう・悪かろう」 と云うイメージしかなく、振り向きもしませんでした。
他の大手旅行代理店JTBにしろ、近ツリにしろ、私たちの旅のスタイルとは、かけ離れていましたので、ほとんどは個人手配自由旅行或いは 特殊な地域、環境の土地は、その地の専門店である、「西遊旅行社」とか「道祖神」とかを利用していました。
やがて、退職し、自由な時間を手に入れ、ネットの普及もあって、海外はほとんど個人自由旅行に徹していました。

退職10年目、65才にして海外旅行を卒業し、国内にシフトしてきた私たちの目に、初めて「阪急旅行社」のバンフが 目に留まるようになりました。
初めての利用は「赤倉温泉2泊3日、朝夕四食付、都内からの新幹線を含んで一人二万円」でした。
私の故郷は、信州善行寺の門前町です。
都内から新幹線で長野までの料金は勿論解っています。
赤倉温泉は、高校時代にスキー合宿で何回も利用していて、凡その値段も解っています。
交通費込み、長野と赤倉間往復送迎・食事込み、二泊で二万円は、個人レベルでは考えられない値段なのです。
これ以降、阪急から団体パックではなく、個人夫婦二人レベルの二泊三日宿+列車or飛行機のパンフが毎月送られて くるようになりました。
何回か利用していくうちに、このセット価格の裏側、仕入れ、欠点が解るようになってきましたが、やはり値段は魅力的です。

■ このような個人用セットパックの特徴・欠点は

往路 ゆっくり出発 復路 早めの帰宅 と云う謳い文句です。
東京発の新幹線や航空機は、ほとんどがお昼過ぎに出発し、現地の駅、空港での送迎がついて、宿に到着するのは、3時頃 で、復路は宿を10時に送迎シャトルで出て、東京に早めに到着、2時、3時です。
確かに、関東でも都心から遠い、年齢が高いシニアにとっては、ゆっくり出発、早めの帰宅は楽かもしれませんが、往路・復路 の2日間は移動だけで、実質観光などで動けるのは、中日の一日だけです。
このセットパックでは、往路・復路の列車、飛行機の選択は出来ません。
旅行会社はJR新幹線の場合、一番利用客の少ない列車を大量購入、格安で仕入れており、利用客便のは変更は出来ません。
そして、格安パックホテルのロケーションの問題
ほとんどのホテル・旅館はオフシーズンの集客に苦労する立地で、周辺に誰でも知っているメジャーな観光地はありません。
以前から、阪急が売って来た、「信州白馬二泊三日二万円」や「赤倉温泉二泊三日二万円」が典型的な例で夏場だけの商品です。
白馬も赤倉も冬のスキーシーズンは、このような料金でなくとも、幾らでも集客できるのですが、いわゆるグリーンシーズン は、周辺に大観光地もなく、新幹線駅から遠い立地なので、駅まで自前の送迎バスを運営し、宿の食事を一定期間統一し てコストを下げて、阪急のような大手旅行会社の集客力に期待するのです。

今回の場合
■ 水上高原ホテル200に2泊食事4回付
■ 都内から上毛高原まで新幹線指定席
■ 上毛高原・ホテル間送迎付き
■ 二日目、宝川温泉日帰り入浴、送迎付きor尾瀬鳩待峠往復送迎+お昼の弁当付き
で一人26,000円、二人で52,000円。
私たち夫婦の国内2泊3日旅行予算10万円に楽勝、納まります。
但しの条件があります。
二連泊のホテル室内のクリーニング・ベッドメイキング・タオル・アメニティの交換はいっさいなし、或いは有料です。
その分、ゆっくり出発、早めの帰宅の新幹線時間帯が緩和され、少し早めの往路、少し遅めの復路の選択が 初めて出来るようになりました。
数年前の秋に、この水上高原ホテル200パックを利用して、尾瀬ヶ原に行ったことがあり、このホテルの グレードには満足してたのと、何よりも往路・復路の時間帯が選択出来るようになり、一日目と最終日の独自の観光予定が建てられるので 今回、再びこのセットパックを購入しました。

■ 一日目谷川岳ロープウェーを目指す。

早めの出発と云っても東京駅10時16分、上毛高原着11:22ですから、そんなに早くはありませんが、上手に自分で 路線バスを使えば、ホテルシャトルバスの最終便に間に合います。
新幹線で東京から1時間、上毛高原駅から路線バスの周遊切符で、谷川岳の天神平を目指しました。
1時間15分ほどの乗車で到着、すでに空気は東京首都圏の極暑からほど遠く、予備の長袖を出しました。
7月第4週の平日、ロープウェーはさほど混んでいませんでした。
頂上駅に上がるにつれ、霧がどんどんと濃くなっていき、目の前の天神峠行のリフトも霞むほどでした。
まだ夏休みが本格化していないのか、観光客の姿はまばらで、早々に下山して、今夜のホテル「水上高原ホテル200」 の送迎シャトルバスの来る、水上温泉駅に向かいました。
本当に行きたかったのは、天神平ではなく、地下からの長い階段で有名なJR土合駅と、谷川岳の雄大な一の倉沢を 眺められるトレッキングコースを歩くことだったのですが、旅行一週間前に阪急から送られてきた新幹線チケットの時間を みて、一の倉沢や土合駅を廻ると、最終のシャトルバスに間に合わないので、諦めました。
私たちが泊まる、水上高原ホテル200は上毛高原吹きから1時間10分もかかるのですから、これを逃してタクシーとなる 何の為の格安セットか本末転倒になってしまいます。

■ 二日目、半日宝川温泉日帰り入浴

これはホテルのアクティビティーの一つで、本来の宿泊客は有料なのですが、阪急はセット料金に含んでいます。
しかし、一日二便の宝川温泉シャトルバの選択は出来ません。
到着日に私たちは午後13:50発を告げられました。
では、午前中何をしたら良いの?、何処へ行ったら良いの?
水上高原ホテル200は1986年にコクドが設立し、プリンスホテルグループが、スキー場・ゴルフ場と一緒に経営してき、 2007年、楽天グループのクリムゾングループに売却され、現在至っています。
敷地は広大で3つあるゴルフコースを持つホテルです。
楽天グループのクリムゾングは、この広大な敷地を子供向け、グリーン冒険ジャングルを増設しました。
冬季閉鎖されるゴルフ場は冬場のスキー客、春夏は、シニアの宝川温泉・尾瀬沼へのステーション基地、 夏場は子供連れのファミリーで業績は上向きですが、如何せん、群馬・奥利根のロケーションで年間を通して安定した集客は、 大手旅行会社に委ねているのが現状のようです。

宝川温泉はホテルから20分ほどの距離です。
有名映画のロケ地に使われ、世界的に有名なガイドブック『ロンリープラネット』で「日本の温泉トップ10」1位に選ばれた名湯です。
一度行って見たかった場所の一つですが・・・・
温泉旅館本館に泊まっていない、日帰り入浴なので、本当のことは良く解らないのですが・・・
渓谷沿いに4つある、混浴可能に露天風呂なのは確かですが、渓谷に沿ってはいますが、渓谷の川と一体ではなく、あくまでも 人工的に作られた露天風呂です。
私たち夫婦は、川の流れじたいが温泉と云う場所を経験していたので少しがっかりです。
そして、かなり温度は低め、ぬるいです。
外国人に人気の割に、風呂場を含め、宝川温泉じたいの清潔感が欠如しています。
何よりも、7月8月の季節、虻が大量発生しており、露天風呂でゆっくりと身を沈めると、 顔の周りに虻が飛び交い、5分と入浴出来ません。

宝川温泉内は撮影禁止です。
その代わり、宝川温泉公式サイトでは、自由に画像をお使いください。と季節ごとの美しい写真を掲載しています。
にも拘わらず、中国系と思われる外国人観光客は、裸の露天風呂で写真を撮りまくっていました。
宝川温泉は、一度行けばもう十分です。
日本にはもっと素晴らしい温泉、お風呂は、こんな山奥の不便な場所に行かなくても沢山あるのですから。

■ 三日目水上温泉街と諏訪峡

この日、関東に台風12号が接近していました。
このあたりでも雨の影響があると行けないので早めにホテルを出て、下で時間を過ごすか?、 雨のなかホテル内でチェッアウトの時間まで過ごすのか、迷いました。
標高の高いホテル周辺は、朝から小雨模様です。
しかし、天気予報図を見ると、かなり台風はカーブしており、どうやら下の世界、水上温泉街付近は晴れている様子なので 水上温泉を観光して帰宅する道を選びました。
ホテル発シャトル便は10時35分、阪急のデフォルトの設定でほとんどのシニア客はこの便で帰り、上毛高原発12:21、東京13:28着で 文字どおり早めの帰宅となるのですが、私たちのこのシャトル便を途中のJR水上駅で下車しました。
この日は、高崎・水上間に土曜日限定のSLが走る日なのです。
そして、事前にネットで調べると、水上に12:03に到着するのは解っています。
11時に駅で下車して、駅員さんにSLの最適撮影スポットを教えてもらい、温泉街のなかを歩いて道の駅「水紀行館」に陣取り撮影に 成功?・・・撮り鉄ちゃんならもつと良いのが撮れるのでしょうが・・・初めてにしては上出来かな。

その後利根川の清流・激流でのリバーラフティングや、諏訪峡大橋からのバンジージャンプを眺めて、路線バスで上毛高原に出て 東京に戻りました。
新幹線が大宮に近づくに連れ、今までの青空は曇天から横殴りの雨の荒れた空に変って行きました。
地元湘南に近くで、台風特有の小休止なのか雨もやみ、自宅までほとんど塗れずに帰宅出来ました。
阪急のこのような格安パックセットの内容を把握していれば、年金シニア夫婦二人で2泊3日、お土産代含めて10万以内の旅は 楽勝に出来ます。



水上1 水上2 水上3 水上4 水上5 水上6


07/22 今月の映画は、話題の「焼肉ドラゴン」を見に行く

退職後なるべく、毎日、前向きな生活をする為に、予定のない空白の日を造らないように努めて います。
でも、仕事でもないのですからそんなに空白・暇を恐れる必要もないのですが、カミサンは 私の部屋のカレンダーを見て、何も予定がないの?と云います。
君に心配してもらなくても、良いよ。
予定のない日は、映画の日なんだから。
シニア割引、1,100円で2時間半、どっぷりと涼しい環境で、映画の世界に浸れるのですから、安いもんです。

今月は「焼肉ドラゴン」です。
名画『月はどっちに出ている』などを手掛けてきた、在日コリアン三世の鄭義信の 日本の新国立劇場と韓国の芸術の殿堂による劇場演劇コラボレーション作品の映画化です。
ストーリーは、大阪万博によって消えて行った、在日コリアン集落、大阪国際空港横の伊丹市中村地区がモデルの 「I空港そばのN地区」に住む、在日コリアン夫婦・家族の物語です。

この映画を見て、最初に思い起こしたのは、神奈川県川崎市幸区の多摩川の河川敷にある戸手4丁目の一角 JR川崎駅から北に2キロ足らずの多摩川沿い、200メートルほどに、戦後住みついた在日コリアン集落がありました。
この辺りは、現役時代毎日通勤で通った横須賀線の車窓からいつも眺めていました。
いつの間にかなくなり今は高層住宅が立ち並んでいます。

今では、韓国・朝鮮籍の人は、属する企業の名刺でも普通に本名で名乗っていまが、ついこの間までは 日本での通名で通していたのです。
日本国内での「第三国人」と云う言葉が、若い世代にはなんのこと、と不思議がられるように、元植民地の人々への 偏見・差別はどんどんと無くなっている時代。
ひとえに、韓国経済の発展と、韓流ドラマ・音楽の影響でしよう。

映画の舞台は1969年から1971年の3年間、大阪万博が象徴するよう、日本の高度経済発展テイクオフの年 の話です。
誰もが豊かになっていく時代に取り残された、川沿い、空港に面した不可侵の、無かったこととして 忘れられようとしている、旧植民地の朝鮮人集落の家族の物語が、劇場演劇ではなく広く誰でもか見れる 一般映画館で上映されるのは、喜ばしい兆候なのですが・・・
果たして、興行的にどうなのでしょう。
私は、この映画を知ったのは、封切りから1か月以上経ってから、韓国語を学んでいる友人女性のフェーブック で知りました。
ハリウッドの荒唐無稽のCG映画や、大金をかけたアニメ邦画などが、あらゆるメディアを駆使して、事前通知・CMを 打つっているのと違い、割と映画好きな私のアンテナには引っ掛かりませんでした。
月に二三度は行く、109シネマでは話題の映画は必ず予告編を上映するのですが、何もありませんでした。

この「焼肉ドラゴン」は商用映画の範疇ではなく、「万引き家族」のような芸術作品に属するのでしょうか? 今回、SNSで知ってから、鎌倉周辺での上映館を調べると、どうやら東宝系の劇場でやっているようで 「横須賀」・「桜木町」・「上大岡」でやってました。
封切りから6週間も経過しているので、やっていても上映は、シニアには不向きの時間帯の夜が多く、 ギリギリ、近くて明るいうちにやっている「TOHO上大岡」まで行きました。
水曜日、レデイーズデーですが、87席の一番小さなスクリーンの入りは3~4分程度でした。

終わって、外に出るとまだ猛暑・熱波が襲ってきます。
主演女優の一人。「真木よう子」の憂いのある演技、彼女はああいう役が一番似合います。
「風に立つライオン」でアフリカにドクターとして旅立った元恋人の訃報を手にして、 地元長崎で幼馴染の漁師と結婚した彼女は、じっとその便りを手にして、港に立つ姿ラストシーンには今でも泣けてきます。
この映画「焼肉ドラゴン」でも彼女は、ラストは北朝鮮へ渡って行くのでした。


07/12 避難準備・避難勧告・避難指示がでているのに何故?

平成の世の最大となった今回の西日本の水害事故のニュースを、高齢者と呼ばれる我が家 の二人は、NHKのTV画面ではあれほど繰り返し呼び掛けているのに、なんで?と云う話を していました。
今回のブログで、それについて書こうと云うと、カミサンはネット社会でそんなことを 書くと、パッシングされるから、書かないでと云います。
そうかも知れませんが、大手メディアだけではなく、政府の今回の大災害で情に報の伝え方 、言葉の使い方について、再度検討する必要があると本日の紙面で伝えているのだから 特に、情報発信力・量の少ない、高齢者の立場で書く必要があるのではないかと?と思い パッシング・炎上を覚悟で書こうと思います。

NHKのTV画面の一例では・・・尾道市全域で避難指示と流れました。
確かに、数年前に尾道を旅した時、傾斜地、山側に沢山の一般住宅があり、この未曾有の 50年に一度の大雨で、あの観光名所の千光寺周辺の住宅地が危険なのは解ります。
しかし 遠く離れた駅周辺や、海に面した尾道水道あたりは、海水上昇、高波は考えられますが 土砂災害に巻き込まれ可能性は少ないのでしないでしょうか? 仮に尾道市民全員が避難勧告に従って、避難所に行くとして、実際には、市民全員を受け入れる 避難所があるのでしょうか?

私たちは鎌倉に住んでいますが、何度も携帯に大雨による避難準備・勧告メールが届きます。
メールの文書をみると、藤沢・茅ヶ崎地域とあります。
それでは、なんで鎌倉市住民の私たちに緊急メールが届くのか? 恐らくですが、市外局番0467地域全域に送っているのでしょう。
避難準備・・・準備をしなさい、という事ではないようです。
高齢者・子供・自力で避難出来ない身障者はこの段階で近くの避難所に行きなさい、ということ
避難勧告・・・勧告ですから、避難する事を薦めます、と受け取れられ、自分の判断に委ねる 部分が多いように受け取られますが、実質はこの段階で、避難すべきようです。
避難指示・・・この指示という言葉の受け取り方に問題があるようです。
色々な考え方、受け取り方をする人がおり、お上(行政・政府)からの指示は信用できない、 自分の身の回り危険度は、遠く離れた安全な場所にいる役人よりも、自分自身が一番解る・・ と思う私も含めた高齢者は多いです。
避難指示・・・ではなく避難命令が適切なのではないか?と云う議論がされているようです。
しかし、命令となった時、補償を含めた法律的な問題が起きりうるのを政府は警戒している との話も聞こえてきます。

私たち夫婦の間で現在話し合っています。
我が家の避難ルールについて、政府・行政の勧告・指示に関わらず、どんな状況・変化の時にどう対処するか 家からの緊急持ち出し品のリスト造りと、実際の荷造り。
離れていた時の連絡方法なども、これを機会に 確認し合いました。

我が家の災害の危険度の実際
土砂災害は・・・
我が家の裏手は小高い山・森林で有名進学校があります。
引っ越ししてきた当初、この学校の公道に面した山側が豪雨で崩落し一日停電になったことが ありますが、実際には我が家の共同住宅からの距離はかなりあるので、例え一部崩落しても、我が家 までは到達しないであろうし、仮に到達しても、鉄筋コンクリート造りの上層階なので土砂にまみれることは ないだろうと考えています。
水害は・・・
相模湾につながる二級河川から500mほど離れていますが、堤防を溢れた水が押し寄せる可能性はあります。
そして地震に伴う津波がこの河川を遡って溢れる可能性もあります。
ハザードマップによると我が家の標高は8m、そして上層階ですから、まあ大丈夫でしょう。
地震による被害・・・
これが平成30年現在一番起きりうる、可能性の高い災害でしょう。
今後30年から50年内に、南海トラフ或いは関東首都圏直下型地震が起きる可能性があり得ります。
鉄筋コンクリート造りの共同住宅ですから、倒壊と云う致命的な被害の可能性はほぼゼロに近いものの 立地が元水田の軟弱地盤なのは解っていますので、ある程度の被害は予想されています。
その為に、この建物の地盤改良、基礎の縦杭が埋め込まれいるのは調査ずみです。
近隣で5階建ての共同住宅が建てられる現場では、数か月に渡って地中梁の工事をみていますので 我が家も大丈夫だと思いますが・・・信用するしかありません。
しかし、近隣で建てられて2階建てプレハブ構造賃貸マンションの建設現場をみていると、地中杭うちは 全くされていませんし、建売住宅の基礎部分では、建築用語で云う根切がされていない、耐圧盤基礎や 其の上の基礎材に新建材の圧縮木材が使われているのを多く見かけています。

もし関東大震災なみの地震が起きれば、かなりの被害が出る可能性は大です。
今後30年・・・私は100%存在していなので構いませんが、カミサンは可能性があります。
90才、カミサン一人で生きていけるか? 少し心配しています。


07/08 ハイシーズン6月、花を求めて歩くシニア女性群 礼文島観光旅行記

礼文島は利尻島と抱き合わせでの観光になりますが、観光目的大きく異なり、訪れて人も違ってきます。
6月の稚内フェリーターミナルの待合室に行くと、大勢の観光客がフェリーに乗る為に長蛇の列が 出来ていました。
ほとんどは、中高年を中心とした女性の団体ツァー客です。
皆さん、しっかりとしたトレッキングシューズを履いています。
花の島「礼文島」は、内地の高山植物が緯度の関係で低地が見れることが売りの島で特に、5月から 6月にかけて、島中一斉に咲き誇るので、花好きのシニアには垂涎の島なのです。


礼文島は地図で解るように、南北に細長い島で、島を廻る道路は東と南側に限定されています。
島の西側は、日本海の荒海に面しており、山が海岸まで迫っており人々の暮らしは、島の南東部に 偏っています。
西側に道路が少ない理由の一つとして、島の最大観光資源である高山植物の保護の為です。
利尻島のように、観光バスで島を一周するのではなく、島の西部のお花畑を幾つかのハイキングコース に分けて歩いてもらいたいからです。
歩いてもらうためには、最低一泊は礼文島に泊まらなくてはならないので、ホテル・宿は利尻島と比べ ものないほど多いのが特徴です。
利尻富士を見るための観光と違って、礼文島は花がメインですから、時期は5月~7月に集中します。 稚内のホテルも利尻・礼文のホテルも、都会では考えられないほど高騰します。
今回の稚内のホテルは、大手旅行代理店のホテルランクはBクラスですが、二泊ツイン、食事なしで 38,000円でした。春・秋のピーク時の京都市内、河原町・四条周辺のAランクホテルよりも高いのです。

礼文島観光情報
フェリー 利尻から礼文  850円
     礼文から稚内 2,370円
礼文半日観光定期バス  3,100円
食事 観光客は、うに丼、海鮮丼を望みますが、島民が普通に通常食べられる価格ではなく、 今ではホッケさえも超高級魚となっていて、観光客しか食べれないとこぼしていました。
高山植物やお花には全く興味のない私たち夫婦にとって、「礼文へ行ってきました。」 だけで十分ですが、礼文島は、利尻島と違ってじっくりと自分たちの足で歩く、花を愛でるトレッキング・ ハイキング好きなシニア女性、山ガールにお薦めの島と見受けました。



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07/05 美しい利尻富士が見たい 53年振りに実現するか 利尻島旅行記

北海道には梅雨がなく、観光には最適シーズンと関東首都圏に住む私たちは思い込んでいます。
6月の末、個人旅行で利尻・礼文に行ってきました。
昔、高校生の頃の8月、海に浮かぶアルプス利尻富士が見たくて、最果て駅「稚内」に降り立った時 雨でした。
昭和40年の夏、高校生の私の旅の予算は乏しく、天候が回復するまでとどまる余分な宿代はなく、 稚内の駅のベンチで二日過ごして、天候の回復を待ちましたが、づっと冷たい雨のなか、ストーブにあたりながら 夏の甲子園野球を見ていました。
結局、雨は上がらず二学期が始まるのに合わせて帰路に着いたのですが、何時か、絶対に綺麗な 利尻富士をみようとの思いが残り、53年経ちました。

今回はカミサンと二人旅です。
ネットで調べると、稚内から朝一番のフェリーに乗ると、日帰りで利尻・礼文島各々の定期観光バスを 使うことにより廻れることが解り、フェリー代、利尻、礼文の定期観光バス代合わせても一人11,700円 で済むことが判明しました。
本来なら、利尻・礼文の各々の島に最低一泊して、ゆっくり歩いて見たいのですが、カミサンはあまり ハイキングや高山植物に興味を示さない、都会好きですし、私もただ昔、果たせなかった綺麗な海に浮かぶ 利尻富士を見たいだけなので、駆け足旅行でも良いか、と妥協しました。
行く前から、稚内の天候を毎日ネットでチェツクするのですが、日々変わり何時まで経っても晴れの日 が見当たりません。
出発当日の朝の天気予報は何と、稚内は小雨、二日目の利尻・礼文は曇り、最終日 の三日目も午後から小雨と最悪ですが、宿も・フライトも手配済み、行くしかありません。

こんな利尻富士の姿を見たかったのです。
この画像は稚内のフェリーターミナル待合室の巨大液晶スクリーンに映っていたものです。


利尻島は地図のように火山島で利尻岳を中心として円形の島で、外周を道路があり、そこに島の人々が 暮らしています。
ガイドさんによると、島の暮らしは「半農・半漁」ならぬ「半観・半漁」で、観光シーズンの6,7,8月 で収入の半分近くを稼ぐと云う観光の島だそうです。
6,7,8月が観光シーズンなのですが、この三ケ月、絵のような綺麗な利尻富士をみることは滅多にないそうで、 利尻富士の撮影が大目的なら寒く、フェリーの欠航もあることを覚悟で11月あたりが一番だそうです。
本音を云うとの前置きで、本州からの2泊3日で、海上の浮かぶ標高1700mの綺麗な利尻富士をみるの 至難の業だそうです。
確かに、富士山を身近で眺められる、鎌倉・湘南に住んでいたも、絵のように美しい富士山は、そう滅多になく 、冬の空気の澄んだ早朝とかに限られているのですから、ましてや離島の高山なのですから、本州から 天気予報を見て飛行機で飛んできても、そう簡単にこのような美しい利尻富士の姿は、撮れないのは 解ります。
そのせいもあって、利尻島の観光スポットには巨大な利尻富士のパネルがあり、観光客はこの前に立ち記念証拠 写真を撮っていくそうです。

利尻島観光情報
フェリー 稚内・利尻間 往復 4,280円
利尻島一周観光バス      3,300円
離島の物価の象徴 ガソリンレギュラー 720円
個人旅行の場合、何時フェリーが欠航するか解らないので、2泊程度の余裕現金が必要でしょう。



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07/02 リタイヤシニア男性は何故か北を目指す 稚内旅行記1

先週、稚内を二泊三日、完全個人自由旅行で行ってきました。
関東首都圏に住む人にとって六月の北海道は梅雨がなく、最も美しく旅に適した季節と云うイメージ があり、これまでに海外旅行で貯めてきた、UAのマイレージを古稀を迎えた今年から、国内旅行に 使うことにしました。
UAのマイレージはスターアライアンスのパートナー全日空で使えるので、どうせ行くなら一番遠い場所 ということで、手始めに稚内としました。
往復10,000マイル、夫婦二人で20,000マイルです。
まだまだマイルは残っていて、後6回は日本中マイル で旅することが出来ます。
但し沖縄だけは加算が必要で、一人15,000マイルですが、それでも楽勝なハズ 羽田・稚内は全日空しか飛んでおらず、国内格安航空券でも強気の値段設定で、往復一人38,000円ほど ですから、今回の旅では、二人で76,000円ほど節約出来た計算です。
しかし、稚内のホテルは6月~8月のシーズンはドピークで、シニア夫婦がゆったりと泊まれるホテルは 少なく、食事なしツインは2泊で38,800円と結構しました。

初日の午後、最終日3日目、羽田に帰る日の午前は、稚内市内観光に費やしました。
稚内を旅するのは、高校3年の夏以来、53年ぶりです。
先ずは、宗谷岬を目指しました。
今年の北海道は、本州の梅雨前線が北上したせいか、6月に青空がのぞめたは数日だけ、毎日曇天と雨 の日が続いています。
今回、どうしても見たかったのは、53年前の夏、やはり雨で見れなかった、海上に浮かぶアルプス「利尻富士」 ですが、この初日の宗谷岬は風と雨でした。
ここで見かけたのが、沢山のキャンピングカーと内地ナンバーのライトバンです。
特に多いのが、一人旅らしく、車に沢山の毛布をひき詰めた私と同じ世代の男性です。

こちらから近づくと、皆さん決まって、相手から話しかけてきます。
何処から来たのか?、これから何処を廻るのか?、皆さんリタイヤ年金シニアで、退職したらやりたかった 旅行のなかでも、北海道を一周する旅をしたかったと、お話されます。
お一人ですか?と聞くと、出来れば夫婦一緒に来たかったけど、妻は乗り気ではなく、一人で行ってらつしゃい と送り出すケースが圧倒的でした。

私たち、団塊世代のおじさんの頭の中では、宗谷岬、日本の北の端、国境の町と云うノスタルジーと あのダカーポの名曲「宗谷岬」のメロディが流れているのです。
 流氷とけて 春風吹いて
 ハマナス咲いて カモメもないて
 はるか沖ゆく 外国船の
 煙もうれし 宗谷の岬
 流氷とけて 春風吹いて
 ハマナス揺れる 宗谷の岬

まだ自分が海外旅行に出かけられるような境遇ではないことは解っていた頃、バックパックを背負って上野駅から 北海道均一周遊バスを手にして、北に向かう列車の床に新聞紙を敷いて目指したのです。
あの頃を思い出を辿る旅、妻に出会う前の自分の姿を追い求める、センチメンタルジャニーに、親しい・愛する 妻がいないほうが、どっぷりと人は青春時代に戻れるからでしょう。

稚内は節約旅行シニア夫婦が食事するにも困るような、閑散として人通りのない町でした。
(数千円もする「うに丼や海鮮丼」を平気で食べられる人は別でしょうが) 北の果てのJR駅舎は立派なターミナルビルに変っていましたが、駅は旅行者だけ、普段地方都市で見かける 通勤客・通学する高校生の姿はなく、子供たちの姿も町では見かけませんでした。
JR稚内を発着する電車は1日7本だけです。

3日間づっと小雨と曇天の日でした。
3日目に羽田空港に降り立つと、3日間過ごしたモノトーンの世界から、いきなりフルカラーの世界です。
空港からの帰路の電車は、原色を纏った華やかな衣装の女性たちを乗せ、数分おきに発着していきます。
家に帰るとTVのニュースでは、関東地方の明け梅雨を宣言していました。
例年よりも22日、早いとのこと。
今朝までいた北海道には、押し上げられた梅雨前線がかかっていました。



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6/21 トレンド・流行語「大迫半端ないって」の真相が解った。

ワールドカップコロンビア戦の翌朝の新聞紙上は、「大迫」の大ゴシック文字のオンパレードです。
スポーツ紙は駅売りがメインですから、どうしても一面トップにキャッチをもってきます。
そこで、目にしたのが昨夜のTV画面で見て、解らなかった「大迫半端ないって」の立て看板の真相です。
大迫の能力を称えるボードであることは解るのですが、顔が似てないのは何故?と。
あの立て看板の似顔絵は大迫自身ではなく、「大迫半端ないって」と云った対戦相手のキャプテンでした。
これが、ネット社会ユーチューブで受け、ヒットしていたのです。


このサッカー「大迫半端ないって」の動画を見て、日清食品のCMがやっと理解出来ました。
大阪と大迫ね。

現在、社会・世間・世界で流行っている言葉、行動、考え方を改めて調べてみる・・・なんてことは 現役時代全くしませんでした。
自分自身が第一線、東京のど真ん中の最先端の現場で働く フロントランナーだと信じていたからなのですが。
そして、55才でリタイヤしてからも、最先端webデザイン・プログラムを扱う毎日でしたから、同じ世代 よりは前を行っていると思ってはいたのですが、この「大迫半端ないって」は知りませんでしたし、日清食品のCM 「大阪なおみ」のパロディーも解りませんでした。
齢をとるとはこういうことなのかも知れません。


6/17 散る桜、残る桜も散る桜  映画「終わった人」を見て

この映画のサブタイトルは「暇だ!」です。
六月の今頃は、私のリタイヤライフの一年で一番暇な時期です。
定年後の過ごし方、時間の使い方として一番のウェイトを占めている NPOセンターでの市民活動団体へのIT支援、webプログラム講座が三月に終わり、四月・五月は、ビデオ・写真 撮影の為の旅行をスケジュールの中心にして過ごし、8月は夏休み関連の高校生ボランティア支援や、センター フェスティバル・地域のお祭りなどの行事が目白押し、そして9月から新たな講座がスタートします。
梅雨の季節の6月~7月が毎年、一番暇な時期となってるのです。

で、週末は三週連続して映画です。
先々週の「家族はつらいよ3」先週の「万引き家族」に続いて今週は「終わった人」です。
全て邦画です。
最近の洋画で見てみたいもと思ったものはありません。
ほとんどが、ハリウッド製のCGを駆使した、荒唐無稽ムービーとアニメばかりで団塊世代のオジサンを映画館 に足を運ばせる、魅力もパワーも感じられません。
鎌倉市内には封切り映画館がないので、二駅先の辻堂湘南モールか、横浜になります。
電車代往復390円とシニア割引料金1,100で、リラックスできる椅子に座って、2時間、異次元の世界に浸れるので すから、考えたら安いもの、毎週月4回行って6,000円ですから、リタイヤシニアの時間の過ごし方としては高尚 な趣味の部類と、自画自賛しています。

さて、「終わった人」ですが、以前ブログで紹介しましたが、小説を読んだ読者の感想や、この映画のキャスティング 東京大学法学部を出て、メガバンクで働き、出世コースから子会社に出向させられ、そのまま定年63を迎えた主人公 を演じるのが「舘ひろし」その妻は「黒木瞳」で、あっても「シニア世代の今日的問題であり、現役世代にとっても将来避けられない 普遍的テーマを描いた話題沸騰必至の問題作。」との解説を読んだだけで、浮世離れした、現実社会から遠く離れたおとぎ話 、なんだかんだあっても、ハッピーエンドで終わるラブコメディだろうと思い、見る予定はなかったのですが・・・ 見に行ったのは、この映画のサブキャッチコピー「暇だ!」だからです。

ストリーの展開は想像どおりでした。
会社の最後の日、部下や家族から
「定年退職おめでとう」
「ここまで家族の為に働いてくれてありがとう」
「これから第二の人生、ゆっくり休んでやりたい事をやって」
と云われても、趣味もなく、やりたいこともなし、美容師の妻が出勤した後は、遅い朝食を一人で食べ、今まで 見たこともない昼のTVワイドショーをみる、11時には早めの昼食を自分で作って食べ、昼寝をする、「暇だ!」 図書館へ行っても、スポーツクラブへ行っても、カルチャーセンターへ行っても、廻りはジジ・ババだらけ。
「俺はまだ終わっていない」 ハローワークから紹介された求職先では高学歴・高職歴が却って邪魔で仕事は断れる。

そして、生まれ故郷、盛岡の歌人「石川啄木」を勉強する為に大学院に入ろうとして勉強を始める過程で、 故郷の方言で童話を書きたいと云う30代の女性と出会い、一方的な恋の夢想にふける。
やがて、スポーツクラブで知り合った若いIT会社社長に請われ、顧問として働き始め、暇ではなくなる。
その会社の社長の突然死から、歯車は思いもしない展開が始まる。
ここまで見ていても、これまでのファミリー・ラブコメディの展開で最後はハッピーエンドで終わるだろうと 思っていましたが、違っていました。
話の続きは、劇場で見て下さい。

映画の最初の頃に出てくる良寛の辞世と伝えられている「散る桜、残る桜も散る桜」 がこの映画全体の底流にあるのです。

余談、 流石に東大法学部卒・大手メガバンク勤務者の定年後のストリーでは、年金や経済的な話題 はいっさい登場しません。 主人公は最後には生まれ故郷の岩手で震災被害者を支援するNPOで働くことになるのですが、イージー過ぎます。
実際にNPOに携わっている私たちは解っています。
NPOには独自の収益を得る手段・事業をもっているのは、当てずっぽうですが一割もないでしょう。
資金・事業費のほとんどは、行政の補助金や寄付に頼っているのが現状で、高い志、社会意識を持つ若者は生涯をこの 仕事に就き、家族を養っていくことは出来ません。
この主人公のような、恵まれた年金受給者がボランティア的時給、最低賃金でサポートしていくしかない ことを、この映画は伝えるべき、と映画を見た私は思いました。


6/9 是枝作品「万引き家族」を見て思い出した

カンヌ国際映画祭パルムドール受賞是枝作品「万引き家族」を見てきました。
先週の「家族はつらいよ3」に続いて、金曜日二週連続で109シネマ湘南で、話題の映画を見てきました。
是枝作品は日本商業映画のようなエンタメ作品ではなく、社会性を持ったフィルム・シネマ・作品と呼ばれる 分野です。映画を見終わって外にでると、そこは湘南の青い海と空、巨大な何でも揃うショッピングモールです。
今、暗い劇場のなかで見ていた、日本社会が抱える問題・薄い家族の絆・そして昔、この万引家族と同じ最底辺の に暮らしていた私の家族とは、全く違う色と風の世界。
帰路、見終わったフィルムの余韻は戻る東海道線車内、鎌倉の閑静な住宅街にある自宅まで引きづりました。

この作品はテーマは、これまでの是枝作品「そして父になる」・「海街diary」の系統をひく「家族とは」です。 帰りの電車中で、この映画の家族と少年時代の自分家族を思い返していました。

私の家族は地方都市の大歓楽街の裏通りで小さな八百屋を営んでいました。
両親と末っ子の私を含めた四人兄弟、家族六人が六畳・四畳半の借家で暮らしていました。 昭和20年代・30年代では当たり前の光景で、特別自分の家が狭いとも、思いませんでした。
父親は、私が小学校にあがる前の年に、肺結核で療養所に入り、退所して来たのは私が中学一年の時でした。
この間、子供の目からみても困窮家族、貧乏所帯と解るほどの生活で、毎日近所のおばさんが来て、生活保護 を受けるように、母親に話しているのを覚えています。

父が療養所から戻ってくるまで、母親は毎日、市場に通い、小さなネオン街で料理屋・飲み屋・バーを相手の 八百屋を営んで、私たち6才から10才の子供たち4人を育ててくるのを見てきました。
父は、38才で結核療養所に入り、出で来た時は44才です。今考えると男盛り6年間、辛く、悔しかったでしょう。
戻ってきても、商売は全て母親が仕切り、父親のいる場所はなかったのでしょう。
毎日、パチンコに明け暮れる姿を覚えています。
夫婦関係は最悪で、毎日夫婦喧嘩が絶えず、母は、末っ子の私が成人したら離婚すると、毎日話している そんなような、私の家族でした。

中学時代に同期生の家に遊びに行った時、まるで自分の家と違い片付けられ清潔な環境に驚きました。
高校に行くようになってからは、この地方都市の歓楽街の裏通りの我が家から、早く抜け出すことばかり考え いました。
自分の家族環境がこれからの自分の人生にまとわりつくのが嫌で、早く自立し、この家族と云うしがらみから 離れる為に、海外に出る手段を模索し、家族や履歴が追いかけてこれない外の世界に出て行きました。

7年海外で暮らし、日本に戻ってあの家に戻った時、家は郊外の戸建てに越していました。
姉・兄は結婚し、あの昭和30年から40年代の社会的底辺の貧乏・貧困層から脱却し、日本全中流社会の一員と して暮らしていました。
あれほど仲が悪かった、父・母の夫婦は65才で家業を畳み、年金と少ない貯蓄で暮らし、年に数回町内会の 旅行にも行っているようでした。

父が71才で動脈瘤破裂で亡くなった時、私はショックを受けました。
父の死にではなく、夫をなくした妻としての母の姿を見たのです。
自宅での葬儀の時、父の棺に母が泣きじゃくってしがみついているのです。
あんなに毎日喧嘩し、離婚すると云っていた母が・・・・ 夫婦の関係は、子供から見ても解らないものだと、その時に実感しました。

その母も85才で亡くなりました。
母は亡くなる前、数年間は痴呆症の症状があったようです。
しかし、首都圏で暮らす私は、実家でする同居する兄夫婦の苦労は知りませんでした。
生前の母の姿を納めた映像母を偲んでを兄弟で共有する 為に、ネットに上げてあります。

今年、二人の兄のうち、長男が末期がんで亡くなりました。
残ったのは、外に嫁いだ姉と実家に暮らす兄と私。
最近、実家に帰る回数が増えています。
新幹線で往復20,000円の交通費は、年金生活で軽くはありませんが、昔の貧乏・困窮時代を共に生きてきた 兄弟として、今年古稀を迎えた私は、出来る限り会おうと心掛けるています。

今回の「万引き家族」を見て、その想いは強くなりました。


2018 5/30 東北仙台・平泉・松島海岸

毎月必ず、一泊以上の夫婦二人の旅をするようになったのは、65才を過ぎてからです。
55才と52才で退職した私たちは、退職したその年から基本的に年4回の滞在型海外旅行が リタイヤ後の生活、生き方、過ごし方の基盤となっていました。
仕事を早めに辞めた一番大きな理由は、子供のいない夫婦の共通の趣味、 「世界中の秘境・世界遺産異文化の地を、じっくり・ゆっくり・のんびりと個人自由旅行 の形で廻ってみよう」というものでした。
現役の時から年に三回「年末年始」・「ゴールデンウイーク」・「お盆休み」と比較的長く休める時に、 本意では有りませんが時には団体パックで世界中を廻っていましたが、 やはりそれは、点と点を結ぶだけの通過するだけ、ただ見て来ただけの旅行にならざるを得なくなります。
早くお金を貯めて、早くリタイヤ後の二人だけの自由な旅をするのが、退職理由でした。

55才で退職し、ほぼ10年、年4回以上二人で世界の僻地・秘境・世界遺産を個人自由旅行で廻りました。
北極圏・マダガスカル・アフリカ・南米はギアナ高地からパタゴニアまで・コスタリカ・ キューバアラブイスラム圏、アジアのまだ観光開発されていなかった国々、ラオス・ミャンマー・ カンボジア等々と同時に、何もしないのを目的に、バリ島・チェンマイ・ホノルルの長期滞在を 繰り返して来ました。

65才で海外卒業
そして今の現役世代が正式退職する65才の齢に、パスポートが失効し、海外旅行を卒業しました。
大きな理由の一つは健康面なのですが、それと同じように好奇心が徐々に薄れて来るのです。
まだ働いていた頃、アジアや南米の市場や田舎の町並みを見ると、ワクワクし、あの場所の空気を 共有したいと思ったものですが、65才の頃には、あの市場の暑さ、匂い、それ以上に煩わしさが思い 出されるようになってきました。
色々経験し過ぎたのでしょう。
二人で話しあい、パスポートを破棄し、手持ちのドルを処分しました。

その後は毎月、生活のリズムとして一泊以上の夫婦二人だけの国内旅行をしてきています。
出来るだけ一都市の比較的良いホテルに滞在し、そこを拠点に周辺を動く形です。
今年は、長崎・伊豆・京都・弘前と続き5月は仙台です。
カミサンは仙台は初めてです。
私は16才の高校生の頃バックパツク背負って初めて東北の地を踏んだのが仙台です。
その後30代の働き盛り、仕事の関係で福島・宮城の浜通りの工場建設メーカーを 担当した関係で毎月当時はまだ東北新幹線はなかっので、上野発の夜行寝台で仙台に向かい、 朝仙台駅で朝食をとってから浜通りの現場へ向かう生活をしていました。

今回は二泊三日、初日は仙台
昔も青葉通りは、今と同じように緑の木々に囲まれた「杜の都」と呼ばれていたかどうかは覚えていませんが「青葉城恋歌」に謳われているように、広瀬川・仙台城址跡の東北大学に代表されているように、美しい、個人旅行者として動きやすい町になっていました。 私たちは旅行先で現地の名物料理を絶対に食べたいと云う気は全くないのですが、牛タンは好きです。東京でも「牛タンの根岸」で年に一度くらいは食べています。 今回、是非本場の牛タンをという事で食べに行きました。 ここで、我が家のお財布の中身を公開します。

毎月、一泊以上の旅行をする・・・お金持ちなのです? いいえ普通の年金シニアです。
私たちの旅行予算では食費は二人で一日7,000円です。
朝食 一人 500円×2  1,000円
昼食 一人 1,000円×2 2,000円
夕食 一人 1,500円×2 3,000円
喫茶 二人で1,000円 合計 7,000円 普段の生活の3倍です。

二日目は仙台から足を延ばして初めての平泉へ
sen01.jpg退職後に住むようになった鎌倉は東北藤原氏と深い縁で結ばれている町です。
義経が幼少期を過ごした場所でもあり、最後を迎えた地でもあり、昔から一度行って見たかった場所です。 仙台からは高速バスで1時間45分、往復割引で一人3,000円と割と行きやすい場所です。
中尊寺はこんなに大きな大伽藍の有した場所であることを初めて知りました。
季節はちょうど新緑の美しい季節、バス停から約800mの山道を歩き、世界遺産・国宝の金色堂に辿りつきました。 静寂と新緑、静かです。じっくりと鎌倉と平泉の繋がりと歴史を堪能してました。

三日目は仙台から電車で40分松島へ
sen02.jpg今年の四月に天橋立に行き、次は日本三景の松島と決めていました。
もう一つの日本三景の厳島は何度も行っているので期待して行きましたが、自分のなかで 思い描いていました多島海の島々の風景は、遊覧船では平面的に見るだけで、島々の名前を 聞いて眺める松島湾クルーズは思っていたような景色には出会いませんでした。
船を降りて、観光案内所で聞いたところ、やはり、本当の松島は上からの俯瞰が一番美しい、 それも季節・時間によるとの説明で、今回のように半日、車のない私たちとってのベストの場所を 教えてもらいました。
駅から一番近く、俯瞰できる場所「西行戻しの松公園」へタクシーで770円で行き、 帰りは歩いて駅まで20分で戻れる場所でした。

仙台から自宅まで3時間ちょうど
昔、上野から深夜寝台列車で行っていた仙台は、今は仙台発16:24分発のやまびこに乗ると、 東京駅で東海道線に乗り換え、自宅最寄駅大船に19:23分に着きました。
3時間。東北仙台がこんなに近いとは。
次は、東日本大震災で多少遠慮していた、三陸に行こうかと、二人で話しています



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2018 5/21 高齢者だってセックス『言えない』性の悩み

昨年放送の【クローズアップ現代+】のNHKらしからぬタイトルです。
日本老年医学会が「高齢者」の定義を「65歳以上」から「75歳以上」にしようと提言するなど、最近、お年寄りが元気だ。
ところが、性欲はあるのに、「年甲斐もなく」と言われることを恐れ、周囲に相談できない高齢男性が増えている。
妻との関係をどう築けばよいのか、 子どもや孫は「枯れないお爺さん」にどう向き合えばよいのか。
NHKらしからぬ大胆な角度からタブーに迫った。
と云う内容です。

私は、地元NPOでパソコンを通じた社会貢献活動をしています。
初級レベルの授業や、ワード、エクセル、お絵かき程度は、熟練した女性スタッフが教えたり、対応しており、私は もっと専門的な、Web言語、プログラミング、グラフィク系の高度な加工などをサポートしています。
ここ数年多いのは、緊急サポート応援です。
初級クラスのシニア男性から電話が掛かってきて、「パソコン画面に突然文字が出てきて、女性のうめき声がし、この画面を消すには、 この電話番号に電話して、指示通りにしなさい的警告文がでてパソコンを消そうとしても消えない」 どうすれば良いのか?と云うのです。
この方は初級クラスの生徒さんですから、女性スタッフへ連絡しますと云うと、それは困ると云うのです。
ここまで来ると、置かれている状況が想像が出来ます。
「アダルト動画サイトかなんかを見て、何かクリックしましたか?」
「そうです。お願いですから、先生、至急助けて下さい。」
これは典型的なランサムウェアと呼ばれているマルウェアです。

出典Wikipedia
ランサムウェア(英語: Ransomware)とは、マルウェアの一種である。
これに感染したコンピュータは、利用者のシステムへのアクセスを制限する。
この制限を解除するため、被害者がマルウェアの作者に身代金(ransom、ランサム) を支払うよう要求する。数種類のランサムウェアは、システムのハードディスクドライブを暗号化し( 暗号化ウイルス恐喝)、他の幾種類かは単純にシステムを使用不能にして、利用者が身代金を支払うように促すメッセージを表示する( スケアウェア)

ご本人は、家族にばれる前に何とかして欲しくて、安全な印象がある公的NPOの私たちに連絡してくるのです。
何処かに、年甲斐もなく、と思われるのが嫌なのです。
一般的に男性社会では、高齢者或いは学歴が高い方ほど下半身に関する話はお互いにしません。
見て見ぬフリをしているし、本当の事を云うと、社会・世間から叩かれ、不潔扱いされます。
私のサイトの掲示板http://wwweb.sakura.ne.jp/bbs/yybbs.cgi で数年前に定年退職男性が赤裸々に性に関する 投稿があった時、大炎上しました。
火付け役の女性はハンドルネームを使い分けて、次々に批判の投稿をして パンク状態になりました。
それほど、シニア女性にとって、六十代以上の男性がまだ性欲旺盛なのが許せないようです。

私はNPOのパソコン・IT関連のサポートの傍ら、民間のwebサイトのサポートもしています。
専門学校の友人がやっているweb制作会社が人手が足りない時に緊急ヘルプです。
私より一まわり下の友人の客先メインは、飲食系店舗でそのなかには風俗系のサイトもあります。
私も何回か緊急ヘルプでお店の事務所で作業したことがあります。
サポートメンテ作業は必ず、朝一番に行くようにしています。
夜ですと、廻りから無用な疑いの目で見られるのを嫌ってですが・・此処にも、私にも日本人シニア共通の思いが あるのは、自覚しています。良いじゃないか、六十代でも七十代でも性欲はあるし、家庭や社会に迷惑をかけて いる訳でもないし・・・と思うのですが。
このお店の奥の作業する事務所から受付店内が見え、解るのは。
・午前から昼過ぎに来るお客さんの大半が明らかに六十代以上のシニア男性です。
・足元がおぼつかない、介護人女性に支えられて来た老人もいました。
お店の女性とも同業者的立場で良く話をします。
彼女たちの話では、昔のような性欲を持て余し、解放に来るような若い青年 は少なく、大半は中高年の男性、特に定年後シニアの男性が多いと云います。
この年代層は、彼女らにとって大お得意様だそうです。
ある程度、お金の余裕があり、定期的に必ず来てくれる、家庭も地位もあるのでトラブルにはならない。
何よりも、午前の暇な時間に来てくれる。
なかには高齢で話だけして帰るシニア老人もいる。
この安全・健全な風俗にくるシニア達も妻・家族・子供たちに知られたくないハズです。

この番組のツィートのなかで一つ気になったのは 「シニア女性には性欲はないのかな」でした。