四国八十八か所遍路結願 浦島太郎
―あなうれし ゆくもかへるも とどまるも われは大師と 二人づれなりー
2021年4月3日、私達は四国霊場88番大窪寺の参詣を済ませた。
10年間、13回の四国行脚が終わった。
正に「ちりも積もれば山となる」「千里の道も一歩から」である。
爆発的な喜びに包まれたわけではないし、泣いちゃったわけでもない。
何と言えば良いのか、じわーっと感慨がこみあげて来て全身を満たした。
何よりも、この間、二人で曲がりなりにも歩き遍路を通せた事に感謝しなければならない。
考えようによっては、10年間をかけた壮大な旅だった。
暫くは、もしかするとこの世を去るまで、
余韻に浸れるかもしれない。心の財産と言えば良いのだろうか。
頑張って目標を達成したという事ではない。遍路には続けるだけの魅力があった。
何と言っても、楽しい。美しい四国の風景の中を歩き、人と語らい、土地の歴史・文化に触れ、
美味しく食べて・飲み、寝る。いつしか、家内のためにトイレ情報を収集し、宿やルートを選び、旅程を考える事も楽しみになった。
外人遍路との出会いも、大きな楽しみだった。
もう一つの大きな魅力は、数日歩いて帰宅してからの、心身の変化である。
私には遍路でしか得られないものだった。スポーツや山歩きとは次元の異なる爽快感。心も体も前向きになる。
残念ながら一週間、永くても数週間で元に戻ってしまうが、この爽快感を得たくて出かけたところ大である。
お大師様のお蔭なのか、歩いて・風呂に入って・ビール飲んで語らうという単純な繰り返しが、そうさせるのか分からないが、
とにかく、最上のリフレッシュだった。
そして、多くの人が「遍路は気づきの旅」と言われているが、確かにそうだった。
自然の中で生かされている自分、助けあって生きている事、人の親切・好意の有難さ、意識して考えている訳ではないのに、
ふと「親はこう思っていたのか」「娘には、こう接しなきゃ」等と思う。
ただ歩いているだけなのだが、日頃、目に留まらぬ事が目に留まり、自然の波長が思考の回路に作用するのか。
それとも単に、暇なのか。
正直言って、歩くには足手まといの家内であったが、目線の違いなのか、私が見落とした標識に気が付いたり、痛み止めの薬を持っていたり、そして何より、誰にも会わない山道では寂しくなくて良かった。
声をかけやすいのか、お接待を受けるのはもっぱら家内の方だった。
疲れて、つまらぬことで喧嘩になる典型的夫婦遍路だったが、結構、お互いに助け合っていたのだと思う。
お遍路交流センターで「四国八十八か所遍路大使任命書」を頂いた。
四国遍路文化を多くの人に広めるのが任務だと書いてある。
退職前後の方に特におすすめしたい。歩いている遍路の大多数は皆様のお仲間です。
少なくとも、同じ世代・状況の人達との会話はきっと楽しく、有益なものとなるでしょう。
但し、「何故、遍路を始めたか?」は聞かないのが、遍路の暗黙のルールとなっています。
家族・恋人を亡くされたり、悩みや病気を抱えて遍路にでている人もおります。
明るくふるまっておりますので、気が付かない事が多いようですけど、会話にご注意ください。
一番霊山寺の山門横の売店で白衣を購入して、恐る恐る読経した。最初の旅館「かどや椿荘」で、「初めてなら、暫く一緒に歩きましょう」と言ってくれた方が、ご家族に不幸があって、急に戻られてしまい、先達を失った。女将の言葉「遍路ができる事自体が幸せで恵まれている事」を納得。
六番安楽寺で初めて宿坊に宿泊してみて、お酒も飲めるし、意外と面白い事がわかった。
お寺として八番熊谷寺・十番切幡寺が立派だったように思う。
二番極楽寺の長命杉や、五番地蔵寺の五百羅漢も良かった。十一番藤井寺への途中、吉野川にかかる沈下橋は二度と渡りたくない。
対向車が来て、川に落ちそうで震えた。
十二番焼山寺への遍路転がしは、想像以上に大変なものだったが、老若男女がやがやと歩いて楽しいものでもあった。
皆さん、遍路を始めた高揚感に満ちていた。
帰路に着く朝、前日の焼山寺への道が大変だったのに、このまま歩きたいと感じた事をはっきりと覚えている。
これで、はまってしまった。
徳島で運河クルーズを楽しんだ。
そうだ、もう廃業したようだが、「すだち館」のご夫婦には、お菓子を沢山いただいたり
、神山温泉まで車で送ってもらったり、とてもお世話になった。
(2013年にも計画していたが、不幸があり中止)
山村の美しい春の風景と廃校の多さが印象に残る。
十三番大日寺への緩やかだが長い下りが、足にきつかった。
未だ真面目にリュック担いで、20㎞以上歩いていた。
宿での食事の時に、前に座った男性に話しかけたら「話したくない」と断られた。
どこかで、地図を広げていたら、男の方がやってきて、次の寺まで案内してくれた。
徳島市内を歩くのは疲れた。歩きには静かな田舎道が良い。
徳島市の阿波踊り会館で、阿波踊りをしてみた。
遍路転がし第二弾の二十番鶴林寺、二十一番大龍寺は、前回の焼山寺と比べれば楽なものだった。
自分達と同年代と思われる方で、奥さんの遺影を持って歩いている方がいた。大龍寺が荘厳だった。
天井の龍の絵も見事だったように思う。
旅館でお隣になった男性2人が面白くて、ずっとお話した。そうそう、鼻炎が酷くなって寝不足になった。
花粉症持ちは、この時期を避けるべき。
二十二番平等寺から再開。カニが横断する道があったように思う。
山を越えて久しぶりに海に出た。海亀が産卵するという美波町の海がとても綺麗だった。
NHKの朝ドラ「ウエルカメ」の舞台だ。
牟岐の接待所や安和海南の遍路小屋に、奇特な人達がいるものだと仰天。
どこかで、軽トラのオジサンにトマト一袋をポイと貰った。
札幌から来た男の子が足を引きづっていて、傍に神奈川から来た退職男性が付き添っていた。
あの二人はその後、どうしただろう。
多分、南アフリカの女性に会ったのがこの時だと思う。
スペイン巡礼で、日本の男の子に四国遍路を紹介されたと言っていた。
言葉が通じない遠く異国の地を一人で歩く勇気に感心した。
二十三番薬王寺は立派なお寺だった
山がないデンマークの女性団体さんと民宿「徳増」でご一緒だった。
この民宿は95歳のおばあちゃんを中心に3世代が切り盛りしている。
夕食をとるお客さんを嬉しそうに眺めているお婆ちゃんが、観音様のようだった。
徳島を終わり、高知県に入って、喜んだ。しかし、室戸岬から足摺岬方向を見た時、
微かにそれらしき突き出た場所が見えて、余りに遠くて意気消沈した。
室戸を超えたら、11月だというのに、ハイビスカスやブーゲンビリヤが咲いていてビックリ。
初めて食べた「水晶文旦」のエレガントな味に感動。一方、連日の鰹の叩きは飽きて来た。
二十五番津照寺のある室戸の民宿「とさ」もおばちゃんが一人で頑張っている宿だった。
一階が食堂で2階に宿泊者用の部屋が数室あった。
幕末に活躍した人達のゆかりの場所を歩く。
坂本竜馬の妻、お龍さん姉妹が散歩した道から始まる。
二十八番大日寺近くの「遊庵」の女将さんが楽しかった。
人付き合いが嫌で定年後に田舎に引っ越したのに、乞われて民宿をする羽目になったのだそうだ。
後で、二十九番国分寺で私の納札を拾ったと言う方から葉書が来た。これ不思議。
高知市内で台風の直撃を受け、ずぶぬれになり、うどん屋さんに大変ご迷惑をかけたが、嫌な顔一つしなかった。
三十一番竹林寺の苔と五重塔が綺麗だった。
また小さいが宝物館の仏像が良かった。
三十二番禅師峰寺で変わった楽器で音楽を奉納している若者に会った。
道路と同じ扱いの渡し舟、そして楽しみにしていた仁淀川にご対面。
山道で「マムシ注意」の看板の所に、本当に蛇がいて、ビックリしたな。
青龍寺山門で参道を登れずにガイドさんが降りてくるのを待っているご老人達がいた。高知城、桂浜の観光をした。
ほとんど雨の中を歩いた。
晴れていたのは、浦之内湾を巡行船に乘った最初の日くらい。
「一福旅館」の女将さんと、親の介護の話になった。
ベルギーからの女性遍路さんが同宿していて、
スマホの自動翻訳で会話を試みたが、上手く進まなかった。
雨のため、国道を随分利用した。
晴れの日は絶対遍路道だが、雨が降れば、トンネルがあり、道のしっかりした国道が良い。
三十七番岩本寺の天井画がユニーク。久々に宿坊を利用した。
九州から来たツアーの運転手さん・ガイドさんと夕食時にお話した。
鉄道のトンネルがループしている珍しい場所があった。小夏というみかんを初めて食べた。
塩けんぴで有名な「水車亭」があった。
道の駅で車中泊の長野からのご夫婦に会った。春と秋に長期旅行をしている。
どこかでお会いした先輩遍路さんに、17㎞/day位だと話したら「君たち、それじゃ前に進まんよ」と笑われた。
足摺岬を目指す旅。
ずっとお天気で、四万十川を渡し船で渡ったり、先達さんに教えてもらってジンベイザメの飼育施設を見たり、
そしてなんと言っても、さわやかな台湾カップルと巡りあう思い出深い旅行となった。
海の色が何となく濃い。昔はクジラが良く見えたそうだ。
「民宿漁火」で見たお月さまは、我人生で最高に大きく・綺麗なお月さまだった。
焼鯖も我人生最高の美味しさだった。焼き方も上手なのだろう。
生姜やオクラの収穫を初めてみた。綺麗な黒松の海岸を歩いた。
足摺岬の三十八番金剛福寺の岩の庭は綺麗だった。
「たっすいがはいかん」という麒麟の宣伝、トイレ洪水事件などもあった。
35㎞/day歩くという健脚女性もいたね
地元の親子に、桜の下を歩く遍路のモデルを頼まれた。
照れくさくて不自然な歩きになって、良い写真は撮れなかったらしい。
一泊二食付で3000円という信じがたく安い「カメリヤロッジ」に感謝。
どぶろくの農家民宿にもお世話になった。上澄みを飲めば清酒だ。
まともにバスも走っていないような田舎だったけれど、遍路を大切にしてくれている事を、ひしひしと感じた。
松尾峠からの宿毛湾の眺めが綺麗だった。
昔は松で覆われていたのが、戦争中に燃料用に伐採されたのだとか。
延光寺で下手な読経を笑われた。
愛媛県に入り、四十番観自在寺の宿坊に泊った。
家内がお腹を壊した。最終日だったので、少し予定を縮めるだけで済んだ。
夏に水害があった後の遍路となった。至る所で遍路道も被害を受けていた。
道路がえぐり取られている様に、自然の驚異を思い知らされた。
「てんやわんや」の旅館に泊まり、また宇和島城や天赦園などの観光をした。
パパイヤの畑があった。
ゲストハウス「もやい」で、帯広から来た青年と一緒になった。とてもしっかりとした人だった。
神戸にお住まいのご夫婦遍路とも道中お話をして、お札を交換した。
卯之町の駅でお話したベルギー男性が、四国が美しいと感動していたね。
そうだ途中で分厚いジャンパーを着て靴をぶら下げて歩いている奇妙な若者とすれ違った。全て貰い物だそうだ。どうやら、野宿したりアルバイトしたりしながら歩いているらしい。色々な人間が遍路している。
帰路、松山城を観光した。
初めてGWを利用しての卯之町~松山までの長期間(と言って九日間だが)遍路だった。
山々のクスノキが綺麗だった。大洲の臥龍山荘でお茶を飲んだ。大洲城はJRから見る方が綺麗だ。内子の通りを歩いた。
久万高原にある四十四番大宝寺の納経所で、納経帖を無造作にボンと置いたら、厳しい目になった。
以来、差し出すときも、貰う時も丁寧に扱うようにした。
民宿「八丁坂」でおトイレを借りたら、お茶を出してくれて恐縮だった。
変わった岩山にある四十五番岩屋寺の急な参道をかなりの年配と見える女性が白装束で必死に登っていた。
車で遍路すれば簡単だと思っていた人は、ここに来たら、考えが甘かったと思うだろう。
体調を崩して奥さんが寝込んでしまったというご夫婦遍路は、その後どうしただろう。出直しているだろうか。
岩屋寺近くの遍路道で蛇がトグロを巻いていた。
三坂峠で自転車を担いで登ってきた若者がいた。
下って最初の四十六番浄瑠璃寺に、正岡子規の句碑があって、松山を実感した。
瀬戸内海が見えると、ようやく最終点の灯りが見えたように思えた。
穏やかな瀬戸内海を眺めて歩く。
初めて、夕食がイタリアンの民宿「まほろば」に泊る。もう一度訪れて、ご夫婦と一献傾けたい。
「加計学園」の看板が遍路道から見えた。
五十六番泰山寺通夜堂に泊っていたドイツ人にアウフ・ビーダ―・ゼーエンと言ったら、ドイツ語聞くのは1か月ぶりだとか言って、酷く喜んでいた。
家内が調子にのって、ミカンを貰いすぎ、処分に困った。
初日の頑張りが悪かったか、2日目に膝が痛くなりまともに曲げられなくなり、中断も覚悟したが、色々やって、続行できた。
六十番横峰寺への舗装された道で、大きな紫色のミミズを良く見かけた。
猪の好物で、夜になると猪が運動会をする程、沢山生息しているそうだ。
豚シャブで有名な「小松ビジネス旅館」でフランス人男性2人組と一緒になった。
この二人は、横峰寺の下りで、走って我々を抜いて行った。
珍しく夫婦遍路が2組泊まっていて、会話が弾んだ。
このお宿は、徹頭徹尾、遍路の事を考えて作られ、運営されていると感心した。
横峰寺の下りが長かったね。なんとなく裕福そうな八が岳山麓にお住まいのご婦人二人連れは結願しただろうか。
六十一番香園寺の本堂が大きなコンクリート作りで驚いた。
春は緊急事態宣言で予約をキャンセル。
意識した訳ではないが、Go To トラベルの恩恵を受けた。
思った通り、お爺ちゃん・お婆ちゃんのやっている小さな宿は、対象施設に登録できずにいた。
申請はしたものの、書類不備で数度突き返されて断念していた。
そもそも、e-mailも使えないのだから、無理もない。一種のデジタル格差だ。
六十五番の三角寺が小さいながら綺麗だった。
標高910mに位置する六十六番雲辺寺からの眺めが、愛媛側と香川側で明確に違うのにビックリ。
この日の下りに時間がかかり、宿に着く前に田舎道で真っ暗になってしまって、泣きそうになった。
「民宿岡田」の親父さんは、聞いてはいたが、本当に凄い。90歳過ぎて頭脳明晰・記憶力抜群・弁舌流暢だった。
七十番本山寺は美しい五重塔を持っていて、遠くの遍路道からよく見える。
五重塔を目印に遍路道を歩くのは良いものだった。
七十五番善通寺で戒壇巡り、宝物館を楽しんだ。
観音寺の銭形をした砂のオブジェや夜の丸亀城の散策も良い思い出だ。
スペイン巡礼の区切り打ちをしているという因島のご夫婦、定年後に実家で民宿を始めた男性
、自転車で日本一周しているという群馬の若者、元気だろうか。
そうそう、かつて下手だと笑われた読経だが、因島のご主人には褒められた。
国分の駅でドアを閉めて発車寸前の列車の車掌さんが我々に気づき、待ってくれた。
最終日は高松のお城と栗林公園を観光した。
コロナの影響で、便利な旅館の幾つかが閉館・休業しており、種々検討の末、高松のホテルを拠点として
お寺を巡るかなり変則的な歩き遍路となった。
しかし、結果的には、荷物を背負う必要がなく、時間的にも余裕のある良い遍路だったと思う。
結願の旅で、行く前から興奮気味。
高松市内は、至る所にうどん屋があった。コンビニの数より多いそうだ。「連絡船うどん」は休業していたが、「うどん本陣山田屋」でぶっかけを食べた。
安くて美味しい。
平日だったが、物凄く繁盛していた。コロナなどなんのそのみたい。
黄砂が視界を悪くしていたが、八十一番白峰寺に向かう道からの山桜の風景が素晴らしかった。
八十五番屋島寺からの下りの遍路道が急で驚いた。
雨が降ったら下りるのはとても危険なように思う。
八十六番志度寺から八十七番長尾寺を経て八十八番大窪寺に至る遍路道は、随所にルート案内や、説明板があり、
また、山頭火の句碑がいくつもあり、楽しい道だった。
地元の人とは何度もお話ししたが、ビジネスホテル宿泊だった事もあるが、遍路している人と話をする事は皆無という珍しい
遍路となった。
何となく、コロナでお互い敬遠しがち。
結願の寺大窪寺の近くの食堂のみそ味の打ち込みうどんは、疲れた体に良く合う。
結願の夜、イタリアンレストランでささやかにお祝いし、ライトアップされた栗林公園を散歩して、旅を終えた。
この日は、栗林公園の春のライトアップの最終日だった。